しかし、さつま揚げは飯のおかずとしては微妙だよね!!って感じで
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維新の三傑というと西郷隆盛と木戸孝允(桂小五郎)…、あと一人って誰だっけ?ああ、坂本龍馬か、ってぐらい忘れられがちな大久保利通。明治政府の初期では一番の権力を誇ったのに、その功績はいまいち知られていない大久保利通。幕末を語る中ではまず名前が上がる事はない…
わし西郷さんの友達よ⁉ by大久保利通
大久保さんの生涯です!!
西郷と大久保の関係
不本意ながらも不満を抱える士族を率いて、西郷さんは明治政府に反乱を起こします。明治10年(1,877年)、日本最後の内戦となった「西南戦争」で西郷さんは自決。49年の生涯を閉じる事となりました。
しかし約一年後の明治11年(1,878年)5月14日、その西郷さんの盟友にして明治政府の内務卿、大久保利通が士族により暗殺。明治政府で袂を分かつ事となった二人は、共に非業の死を遂げるのでした。
そんな大久保利通は文政13年(1,830年)8月10日、薩摩の下級藩士の家に生まれます。子供の頃、現在でいうと3学年上の西郷さんとも出会い、一緒に学問を学んだり遊んだりしていました。
青年に成長すると、優秀な若者を採用するという方針を打ち出す時の藩主、島津斉彬(しまずなりあきら)に取り立てられ、西郷さんと共に大久保も藩の役職を与えられます。
さらに西郷をリーダー的存在(たけし!!)とした、精忠組という組織を結成。しかし斉彬が死去し弟の島津久光が藩主になると、西郷さんは藩の方針に従えず離脱。西郷さんはその後、入水自殺を図ったり島流しになったりしますが、大久保はそんな西郷さんの代わりとなって精忠組を率いました。
大久保は久光が趣味としていた、囲碁の相手などをして久光に取り入ります。そんな大久保の働きかけもあって、島流しとなっていた西郷さんは久光から恩赦を与えられ復帰。
以降、幕末の動乱の中、二人は薩摩藩の中心となっていくのです。
幕末の大久保
幕末の薩摩藩としての大きな出来事は
文久2年(1,862年)、寺田屋騒動の薩摩藩士の同士討ち事件
同年、生麦事件の薩摩藩士によるイギリス人殺害
文久3年(1,863年)に薩英戦争
元治元年(1,864年)禁門の変では幕府側で長州藩と戦い、慶応2年(1,866年)には薩長同盟が結ばれました。
そして慶応3年(1,867年)、大政奉還の上奏から王政復古の大号令により幕府が廃止。戊辰戦争が始まります。
この間に西郷さんは表立って活躍するのですが、大久保はいまいち出て来ないんですよね。その辺で大久保利通ってどんな人だっけ?ってなるんでしょうけど、まあ西郷さんの裏で色々と動いていたようです。最もあくまでも「維新の三傑」ですから、明治政府が出来てからの政治改革で大いに功績を上げた人でもある訳です。
征韓論を巡る対立
数々のドラマのあった戊辰戦争も終結。明治時代が本格的に始まると、大久保は参議という明治政府の官職となり、次々と政治改革を行っていきます。
廃藩置県で藩を廃止、代わりに府と県が置かれ事実上の中央集権化を成し遂げます。また四民平等として、身分制度の撤廃も目指します。しかしいきなり無くす事は出来ず、まずは公家や大名を「華族」、一般の武士を「士族」、武士以外を「平民」としました。
この士族の不満が大きくなっていき、やがて西南戦争が起こり、また大久保の暗殺を引き起こす事になるのです。
明治4年(1,871年)岩倉使節団の一員として木戸孝允や伊藤博文らと共に、約2年に渡り先進国の視察を行います。
その間に国内では、武力で朝鮮を開国させようという征韓論が主張されていました。しかし帰国した使節団の面々は征韓論に反対します。
諸外国の進んだ文明を目の当たりにしてきた大久保らと、留守の間も国内の政治を行ってきた西郷さんらの間で考え方に違いが出来ていたのでした。
西郷さん自体は征韓論ごり押しという訳ではなく
「おいどんが朝鮮に行って話してみるけん、それでダメなら出兵もやむなしじゃろう」
色々と方言が混ざってしまったけど、西郷さんには
「朝鮮と戦になれば士族に活躍の場を与えられる」
という思惑もありました。
諸説ありですが、大久保は西郷さんの身に何かあってはいけないと、朝鮮行きを止めたい気持ちがあって征韓論に反対したともいわれています。
いずれにしてもここで、明友の二人は袂を分かつのです。
大久保利通 暗殺
明治6年(1,873年)11月、内務省が設置され、大久保が内務卿(今でいう大臣)となります。内務省は戦後GHQにより解体されましたが、官庁の中の官庁といわれ殖産興業や地方の行政や財政、警察などを統制。大久保はそこのトップに就いたので、まだ総理大臣がいなかったこの時代の一番の権力者となったともいえます。
そして内務卿として、徴兵令を発布。20歳以上の男子に徴兵制が敷かれました。さらに秩禄(ちつろく)といって、華族や士族に支払われていた給金もいずれ廃止する動きも始まり、秩禄自体も少なかった士族の不満も高まりました。
明治7年(1,874年)2月、ついに佐賀の乱といわれる士族の反乱が起こると、大久保はこれを自ら兵を率いて鎮圧し、首謀者の江藤新平ら13人を処刑させています。
明治9年(1,876年)3月、廃刀令が出されると、九州を中心に士族による反乱が次々と起こり、ついに明治10年(1,877年)、西郷さんが軍を率いて反乱を起こし、西南戦争が始まるのです。
大久保はその知らせを受けても
「あの男がそんなことするはずがない」
と信じられず、西郷さんとの会談を求めます。しかし伊藤博文らに危険だと反対され実現はしませんでした。
やがて西郷さんの死の報告を受けた大久保はその死を嘆き、大変に悲しんだのです。
そして明友の死を無駄にしない為にも更なる国の発展を目指した矢先、
明治11年(1,878年)5月14日 大久保利通 暗殺
東京の紀尾井町で、大久保の乗った馬車が不満を抱えた士族6人に囲まれます。暗殺犯はわずかな側近を退けると、馬車から大久保を引きずり出し惨殺しました。
大久保はその日も、生前の西郷さんから送られた手紙を持っていたそうです…
終わりに
いかがでしたでしょうか?
日本を先進国にしようと尽力した大久保利通。改革には時に痛みが伴う事もあり、士族の恨みを買いました。さらに故郷の鹿児島では人気の西郷さん対し、大久保の評価は残念なものでした。
しかし、自ら借金をしてでも公共事業を行った大久保。彼の死後、その遺族に対し債権者は返済を求める事はなかったのだとか。
ちなみに大久保卿の写真はけっこう残されていて、どれもバッチリと決めています。じつは頭の禿げを隠すためにポマードで髪を固めていたとの事です…
大久保さん、バレてますって!!
本稿は試験勉強には役立たないので、学生の方は良ければ以下も参考に
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