武士の終焉 西郷隆盛の西南戦争

明治~現代

西南戦争とは簡単にいうと、西郷隆盛の率いる士族たちの明治政府に対する反乱です…って感じで

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明治時代となり戊辰戦争も終結すると、基盤となった「五箇条の御誓文」、そして「富国強兵」や「国民皆兵」といった方針のもと、明治政府は次々と政治改革を行っていきます。いわゆる明治維新です。その中では徴兵制、また義務教育や身分制度の撤廃も目指されます。そしてその煽りを食う形となったのが、士族といわれるかつての武士でした。

そんな士族たちの不満を引き受けたのが、戊辰戦争で新政府軍を率いた西郷さん。

そして今度は不満を抱えた士族を率いて、西郷さんは明治政府に反乱を起こすのです…

征韓論 政府内の対立

明治政府の方針の中には江戸時代とは打って変わって、広く外国と交易をしようといったものがあります。それは実行していきますが、そんな中で隣国の朝鮮とは国交が途絶えていました。そこで明治政府は朝鮮に度々使者を送り開国を求めていましたが、朝鮮には無視されている状態でした。

ほっときゃいいのに…と、現代人からすれば思う所ですが、この時代はまた事情や情勢が違っていたのでしょう。

朝鮮は清(中国)の属国でしたが、もしどこかの国に占領されたら、おそらくその国は次に朝鮮を使って日本に攻めてきますね。そういった意味で、最低でも朝鮮の状態ぐらいは把握しておきたかったのでしょう。

またもしかしたら、朝鮮ごときが生意気だという思いもあったかもしれません。

なので征韓論とは簡単にいうと、武力で朝鮮を開国させようという考えの事です。

この判断は海外視察を行っている岩倉使節団の帰りを待つ事になりますが、外国の進んだ文明を目の当たりにした使節団の面々は

「そんな事はするべきではないちゃ」

「国内を発展させるのが先決でおじゃる」

と、征韓論を否定します。

これに対し板垣退助が強行を主張し、西郷隆盛

「おいどんが朝鮮に行って説得してみるでごわす」

それがダメだった時は武力行使も致し方なし、という考えだったのだとか。その裏では

「穏便に済めばそれがいいが、朝鮮との戦になれば、苦しい立場に追いやられている士族に活躍の場が与えられる」

といった思惑もあったようです。

こうして明治政府内で対立が起こり、西郷さんや板垣らは明治政府に辞表を突き付け、下野(官職を退く)する事になります。またそれに同調した約600名の政治家や軍人も離脱するのでした。

朝鮮の開国

その後、板垣は明治政府が変わらず藩閥政治を行っていると主張。言論で明治政府に対抗していきます。

「国民から広く人材を募るのが方針ではなかったのか?」

と、立志社を結社し自由民権運動を活発化させていきます。そんな板垣の尽力もあり、やがて国会が開設される事となるのです。

一方、西郷さんは故郷の鹿児島に帰って「私学校」を作り、士族やその子供たちなどを集めて教育を行います。

明治7年(1,874年)2月、江藤新平により佐賀の乱が起こります。不満を抱えた佐賀の士族による政府運営施設への襲撃で始まりました。これは政府軍により迅速に鎮圧されますが、双方300名以上の死傷者を出すなど、大きな士族の反乱となりました。

西郷さんは江藤新平に頼られますが、それには応じず江藤は処刑されます。西郷さんは明治政府と争う立場ではないという事ですね。

そんな折の明治8年(1,875年)9月、朝鮮の江華島付近で日本の軍艦が朝鮮に砲撃されるという「江華島事件」と呼ばれる事件が起こります。その報復として日本は江華島を占領。

翌年にはかつて日本がアメリカなどと結ばされたような、不平等条約を朝鮮と結ぶのです。これを日朝修好条規といいます。

士族の反乱

経緯はどうあれ武力で朝鮮を開国させたのだから、西郷さんらとも和解すれば良さそうなものだけど、身分制度を撤廃したい(華族や士族だからといって金を出したくない)明治政府と、士族を救いたい西郷さんとではそもそも考え方に違いがありました。

明治9年(1,876年)3月には廃刀令が出され、武士の魂までも奪われます。

やがて士族による反乱は激化していき、熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口では萩の乱が次々と起こります。

西郷さんはこういった反乱には加担せず、自分の私学校で軍事教練などを行います。とはいえ

「ここで育てた兵を率いて政府を倒すでごわす」

というような趣旨ではなく、優秀な人材を育てるというものでした。しかしこういった動きを明治政府は警戒し、西郷さんに暗殺者を仕向けるのです。

そんな噂を耳にした私学校の生徒たちによる火薬庫襲撃が起こり、さらにその暗殺者が西郷さんの部下に捕まり、自白を得た事で政府の西郷さん暗殺計画が発覚します。ただこれが「視察に来た」を「刺殺に来た」と捉えたなど諸説ありなのです。

本当に暗殺しようとしたのかもしれないし、誤解だったのかもしれません。大義名分を得る為、一部の部下たちが

「視察って言ったみたいだけど刺殺って事にしちゃおうぜ」

って感じで、でっち上げた可能性もあります。

ただいずれにしろ部下たちは、明治政府許すまじと激高。もはや西郷さんにも鎮める事は出来ず、ついに新政府軍と戦う事を決意。こうして明治10年(1,877年)日本最後の内乱「西南戦争」が始まるのです。

しかし、かつては政府の陸軍元帥を務めた西郷さんには、もはや最新の武器を装備した新政府軍に敵わない事も分かっていたのでした。

西南戦争

結成した西郷軍はまず熊本へ進軍。新政府の九州地方の拠点となっていた熊本城の落城を目指します。

西南戦争の戦力は総勢、政府軍の約70,000人に対して西郷軍の約30,000人。ただ、熊本城下の緒戦では政府軍約4,000人と、西郷軍が数の上では圧倒。しかし熊本城は難攻不落で、苦戦している中、到着した政府軍の援軍の相手も余儀なくされます。

西郷軍は熊本城で戦いつつ援軍を断とうと、別動隊が北上していきます。そして田原坂にて政府軍の援軍と激しく交戦。しかし新式の銃を装備した政府軍にやぶれると、さらに各地で戦いながらも西郷さんは鹿児島に敗走する事となりました。

西郷さんはわずかに残った兵と共に、城山の洞窟に立てこもります。そこへ政府軍の攻撃を受けると、西郷さんも銃弾により負傷し、「もはやこれまで」と自決。49年の生涯を終えるのでした。

終わりに

いいかがでしたでしょうか?

見た目からもわりと武闘派の印象がある西郷さんですが、西南戦争は本意ではなかった事が伺えますし、征韓論に関しても決して武力強行派という訳でもなかった様子でした。この辺は結構な議論があったようですね。

ちなみになぜか民衆からの人気が高かった西郷さんは、「西郷星」という星になったそうです。

星のおデブさま…

いや僕じゃないです!!

勝先生が言ってましたよ⁉

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