二・二六事件 青年将校たちの昭和維新

明治~現代

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関東軍の自作自演で始まった満州事変が終わり、満州の中国からの独立を宣言。清国最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を皇帝に、日本の手によって新たに満州国が誕生します。

それは満州の日本人居留民、延いては日本そのものを守る為の手段でした。

しかし欧米列強からの理解は得られず、日本は国際連盟を離脱。徐々に国際社会で孤立していきます。

そんな折の昭和11年(1,936年)2月26日、雪が降る中、二・二六事件が勃発。

それは国の行く末を憂いた陸軍青年将校らによるクーデターでした。

ちなみに二・二六事件の中、房州さんと神保さんの麻雀対決が行われています。

網膜に映像を焼き付けるという特技を持った強敵でした…

行くぜ房州さん!!

あ、麻雀の行(くだり)は無視でいいです…

海軍出身の総理

昭和7年(1,932年)3月1日、満州国の建国が宣言されると、中国は国際連盟に提訴します。それを受けた国際連盟からリットン調査団が派遣され、現地の視察を行いました。

この調査自体はソ連の脅威と日本に対する配慮もあり、わりと公平に行われています。しかし満州は中国の領土で独立は認められないとの事で、同時に日本の経済支配に留めるという内容を表明しました。

犬養毅総理もこの国際連盟の表明を支持するような姿勢を見せていましたが、不満を持った青年将校よる五・一五事件が勃発。犬養総理は暗殺されてしまうのです。

軍部を支持するような世論になっていた事もあり、次は斎藤実という海軍出身の総理大臣が誕生します。

そして昭和8年(1,933年)3月、日本は国際連盟を脱退。この辺りから徐々に国際社会で孤立気味となるのです。

しかし、翌年に起こった帝人事件という汚職事件で斎藤内閣は総辞職。その斎藤の推薦を受け、再び海軍出身の岡田啓介が総理大臣となりました。

天皇機関説

海軍出身の総理大臣が続いた事は、陸軍としては面白くなかったのかもしれません。しかしそのこと以上に、当時の陸軍は大きく分けて二つの派閥に分かれていたのです。

それが皇道派と統制派です。

まず当時、天皇機関説という学説があったのですが、これは日本における意思決定の最高機関は天皇であるというもので、大正時代からすでに主張されていました。

一木喜徳郎男爵が主張した説を、一木を慕う東京帝国大学の教授で法学者の美濃部達吉が提唱しています。

最高機関なら天皇を君主とする従来の考えと何が違うの?と思うかもしれませんが、こっちは天皇もあくまで国の一機関としています。

まあ注目を浴びたいのか知らんけど、学者ってこういう面倒くさい事を言い出すもんよね。

そしてその当時の政府はこの天皇機関説を、とーってもいいように解釈したかのように、形式上のトップは天皇としても実際は政治家が政府を掌握していました。

う~む、いつの間にか、まるで幕府…

皇道派と統制派

今の状態のまま、さらに軍出身の政治家を増やし、軍部が政治を掌握してやろうと考えていたのが統制派。

それに対し天皇を君主とし、あくまでも統治権は天皇にあるという、天皇中心の政治であるべきと主張したのが皇道派でした。

そして皇道派には困窮する農村漁村を救いたいという思いもあり、それは一部の資本家が私腹を肥やしているからだと、そういった事も天皇を中心に正していこうと考えていました。

そもそもこの天皇機関説には

「天皇を機関に例えるなど無礼千万」

「天皇の主権は絶対だ」

といった主張もされており、皇道派や右翼団体も交え岡田総理を責め立てます。

堪らず岡田総理は、統治権の主体は天皇だという国体明徴声明を発し、天皇機関説を否定しました。

まったく学者さん、余計な事を言ったもんだ…

しかしながら皇道派の青年将校たちの目的は、いわば昭和維新。その為には君側の奸を排除する事。

君側の奸とは天皇の周りの良からぬ奴らの事で、幕府を討ち天皇中心の世を築こうとしたのが明治維新(政治改革含む)。その昭和版という事で昭和維新という訳です。

青年将校たちは、主に属していた第一師団の満州派遣の内定を知り、その前に維新の決行を計画。

こうして二・二六事件が勃発するのです。

計画の首謀者は野中史郎安藤輝三ら青年将校たち。そして約1,500人の兵隊が集められましたが、そのほとんどは理由も分からずただ上官の命令に従っただけで、なんだったら正式な軍の任務ぐらいに思っていたようです。

二・二六事件 勃発

昭和11年(1,936年)2月26日、雪が降り積もる早朝、クーデターの部隊は首相官邸を襲撃。松尾伝蔵秘書官を岡田総理と間違えて殺害します。駆け付けた護衛数人も殺害。部隊はここでの目的を達成したと思い込んでおり、岡田総理は九死に一生を得る事となります。

続いて別動隊も大臣私邸や新聞社を次々に襲撃していきます。

斎藤実前総理も襲撃を受けますが、滅多撃ちにされ倒れる斎藤に、妻が覆いかぶさり銃口さえ素手で抑えたそうです。しかしそんな妻の奮闘も空しく、斎藤は殺害されてしまいました。

鈴木貫太郎侍従長も撃たれ、安藤輝三大尉がとどめを刺そうとしますが、ここも妻が割って入ると、安藤は敬礼をして去ったと言います。こちらはなんとか一命を取りとめました。

ちなみにこの鈴木貫太郎は、のちの第二次世界大戦終戦時の総理大臣となっています。

しかし昭和の女の奥ゆかしさというのか…

さらにクーデター部隊は警視庁や陸軍省、国会議事堂と次々に占拠していきます。

一方、これを受けた昭和天皇は大激怒。皇道派が天皇を統治者に担ごうとしても、じつは当の本人は

「君臨すれども統治せず」

という考えを示し、反乱軍は逆賊として戒厳令が発令されます。

速やかに鎮圧せよとの事でしたが、武力行使を避けようと、陸軍の上層部が青年将校たちに説得を試みます。

鎮圧部隊にしても攻撃と説得とで意見が分かれ、クーデターの部隊内でも戦う事を主張する者や、潔く自決しようという者も出ていました。

そんな中、飛行機からビラがまかれ、投降を促すアドバルーンも掲げられます。さらにラジオでも勅命(天皇の命令)が発せられた事を告げる放送が流され、ついにほとんどの兵士が投降します。

そして野中四郎大尉が自決。最後まで抵抗していた安藤大尉も自決を図り、これは失敗をするも重傷を負います。

こうして青年将校たちのクーデターは未遂に終わりました。

生き残った岡田総理は、精神的ダメージで岡田内閣を解散。新たに広田弘毅が総理大臣となりますが、そもそも広田はあまり乗り気ではなく、陸海軍大臣現役武官制が制定されます。これは陸海軍の大臣は現役軍人が就任するというもの。

これにより徐々に軍部が政府を掌握していく事となり、やがて戦争へと突入していく事となるのです…

終わりに

いかがでしたか?

この二・二六事件も軍部の暴走のように捉えられているのかもしれませんが、首謀者の青年将校たちには国の行く末を憂う思いがあったのです。

とはいえたとえ本懐が遂げられたとしても、当の昭和天皇にはその気がなかったという残念な計画でした。

もうそういうのはいいから、達者で打とうや…

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