ノモンハン事件とは 無謀な戦いで日本軍の敗北だったのか?

明治~現代

ノモンハン事件をわかりやすくいうと、満州国とモンゴルの間で起こった国境紛争に日本とソ連が介入して起こった武力衝突です…って感じで

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昭和12年(1,937年)12月、日本軍が当時の首都である南京を制圧。停戦交渉を持ち掛けるも、蒋介石の国民党政府は中々それに応じませんでした。

そして中国軍がさらに撤退し防衛線を張る重慶を、日本軍は度々空爆。日中戦争(支那事変)が泥沼の様相を呈していく中、モンゴルと満州国の国境付近で両軍が軍事衝突。

これに日本とソ連が介入し大規模な戦闘へと発展。こうして始まったのがノモンハン事件なのです…

国境を巡る情勢

中国とモンゴル、またソ連(ロシア)というのはそれぞれ国境に面しています。こういった陸続きの国境線って、歴史的に見てももめる事が多いですよね。日本は本当に大陸と陸続きじゃなくて良かったです。

でも太古の昔は陸続きだったらしいですよ。それで大陸との間に大きな湖のようなものが出来て、やがて北海道や対馬の辺りの大陸とつながっていた部分が沈み、現在の日本海が出来上がったという訳です。

いや~、良かった。

…ああ違った。日本神話によると、日本列島はイザナギとイザナミにより生み落とされたんだった…

まあいずれにせよ、ご存じの通り陸続きじゃなくても領土問題は発生している訳です。これが陸続きだったら…、言わずもがなって感じですよね。

そう言えば東京湾の埋め立て地を巡って江東区と大田区が争ってたっけ。ちっさい話だけど…

さて、日本はその中国の北東部に位置する満州という地域を制圧。すかさず満州国という独立国家の建国を宣言しています。

とはいえ、これは実質的には日本の傀儡国家だったといわれています。そうかどうかはともかく、満州国全域に日本軍が駐留する事となりました。その満州国というのは、モンゴルとソ連の国境に面しています。

当時、モンゴルとソ連は軍事同盟を結んでいました。いわば満州国のバックには日本、モンゴルのバックにはソ連がついていた訳です。

そして昭和14年(1,939年)5月、満州軍とモンゴル軍が軍事衝突。それに日本とソ連が介入し、ノモンハン事件が起こるのです。

ノモンハンとは

「ノモンハン」というのはそういう名前の塚で、モンゴル側が主張する国境の目印みたいになっていました。その付近で始まったからノモンハン事件という訳です。

ノモンハンとは「法の王」という意味だそうで、そういえばチンギスハンとかからも分かるように、「ハン」というのが王という意味なんですね。

それでこの辺りにはハルハ河というのが流れていて、満州国側はこの川が国境線だと主張。一方でモンゴル側は、それよりも約20キロほど満州側が国境線だという認識でした。

こういう問題は微妙ですが、どちらかといえばモンゴル側の主張に正当性があるようではあります。

とはいえこのハルハ河から20キロほど満州国側というのは、その塚があるぐらいで他には特に何にもない大草原。

元々厳密に管理もされていませんでした。

そんなこんなで幾度も小規模な軍事衝突が繰り返されて来た訳です。

ノモンハン事件 勃発

ノモンハン事件は昭和14年(1,939年)の5月から9月まで続きます。大きく前半と後半に分けられたりしますが、前半を第一次ノモンハン事件、後半を第二次ノモンハン事件などと呼びます。

そして第一次ノモンハン事件は日本の勝利、第二次ノモンハン事件はソ連の勝利といわれる事が多いです。

第一次ノモンハン事件が始まると、この頃はイケイケになっていた関東軍(満州に駐留していた日本軍の部隊)も攻勢を仕掛けますが、意外にもモンゴル軍の激しい抵抗もあり一進一退の様相を呈していました。

日本側も一旦は攻勢を止め待機しようという意見が出ますが、現場では独自の判断で攻撃を続ける部隊もありました。特に第23師団長の小松原は、捕らえた捕虜から聞き出した情報でソ連軍の戦力をある程度は把握していました。

この時はソ連もまだ、大々的には戦力を投入出来ていなかったのです。

次第に連携が取れなくなり、各部隊が独自の判断で戦うといった状況になってしまうのですが、じつはそれはソ連側も同様でした。

その後は日本陸軍お得意の夜襲戦法は空振りでしたが、航空部隊の活躍などもあり一旦はソ連・モンゴル軍を撤退させる事に成功。

被害も日本軍の死傷者・行方不明者290名に対しソ連・モンゴル軍369名。その他、兵器などの損害もソ連・モンゴル軍側の方が大きいものとなっています。

CIAも警戒した男 辻正信

勝敗はともかく日本政府、また関東軍上層部も戦闘の拡大というのには消極的でした。しかし中には、ここは

「引かぬ、媚びぬ、省みぬ」

などと主張する者も(サウザー!!)

結局はこの際、出方次第では徹底的にソ連を叩いてしまおうと、関東軍内で意見がまとまります。

「ソ連は西でドイツを警戒しないとならないから、ノモンハンにはそこまで戦力を投入出来まい」

という関東軍の見立てもありました。

最もこの観測は外れてしまうのですが…

じつはのちに独ソ不可侵条約が締結するなど、ソ連も外交でドイツと話を付けていたのです。

この頃、ソ連駐在武官の土居明夫が汽車の中から、ソ連軍が大量の兵器を東に向けて輸送しているのを目撃しています。そして関東軍に注意喚起を行ってるのですが、作戦参謀の辻正信は逆に

「そういう事を東京で話すなよ」

と、土居に釘を刺しました。

ちなみにこの辻正信は戦後CIAなどから、第三次世界大戦さえ起こすような男と評されています。

辻「いや~、それほどでも、てへッ」

一方、日本政府や軍上層部も日中戦争が激化する中

「そんな国境紛争などに構っている暇はない」

「現地の部隊に勝手にやらせておけばいい」

などとして、一応は不拡大の考えではあったものの、さほどノモンハン事件を重要視していませんでした。

こうした中で第二次ノモンハン事件へと突入していくのです。

第二次ノモンハン事件

関東軍はモンゴル領内のタムスク基地を空爆する計画を立てます。これは直前で参謀本部にバレて中止するよう要請されましたが

「先に向こうが仕掛けて来たって事にしちゃおうぜ」

として、計画を強行しました。

辻「黙ってやって、戦果を上げて喜ばせてやろうと思って、てへッ」

本部「誰が喜ぶか、この無礼者!!」

さすがは第三次世界大戦を起こしかねない男。

この事は昭和天皇まで怒らせてしまうのですが、かつて満州事変を主導した板垣征四郎陸軍大臣は、特に伊に返さずでした。

しかし今回のソ連は相当な軍事力をノモンハンに投入し、一方で日本軍は本国からの援軍も望めないような状況。次第に戦力の差が浮き彫りとなってしまうのです。

しかしながらソ連軍自慢の時速50キロで走るという戦車は、意外にも日本の火炎瓶攻撃で簡単に炎上。堪らず脱出してきた兵を集団で銃剣で串刺しにするなど、白兵戦では互角以上の戦いを展開。

ずいぶん原始的な戦い方ですが…

さらに得意の夜襲攻撃でもソ連軍にダメージを与える事に成功します。

ただソ連軍の対戦車砲などは、日本軍をして

「光った瞬間に到達する」

と言わしめるほどで、優れた兵器の前では戦況が悪化していきました。

やがて日本軍はモンゴルが主張していた国境線の外へ押し返され、日本軍の敗北で終了する事となりました。

日本とモンゴルだけに、決まり手は押し出しっていうかね…、寄り切り?

しかしながらソ連軍の被害も日本軍と大差はない事。またこれ以降、ソ連がヨーロッパ戦線に切り替えるなどした事から、日本の敗北ともいえないのではないかという説もあります。

停戦交渉

とはいえ最終的にはソ連側が優勢だったので、交渉には強気な姿勢で来ました。しかしこの間にはドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発。

ソ連もポーランド侵攻や隣接するその他の地域に侵攻する計画が控えており、ノモンハンでいつまでも戦っていられないという事情がありました。

日本側の全権、東郷茂徳の粘り強い交渉もあり、かなりソ連が日本に譲歩した形で停戦協定が成立。さらにその後の国境線を巡る交渉でも、当然ながら日本が主張していたハルハ河とはいかないまでも、モンゴルが主張していた辺りから若干モンゴル側に入った所で国境線が敷かれました。

こういった事も日本の敗北とはいえない材料となっています。

そして昭和16年(1,941年)、日ソ不可侵条約で知られる「日ソ中立条約」が成立するのです…

終わりに

いかがでしたか?

満州国とモンゴルの間で起こった国境線を巡る紛争。これに日本とソ連が介入して、大きな軍事衝突と発展したのがノモンハン事件。そして前半の第一次と後半の第二次に分けられ、前半は日本が優勢、後半はソ連が押し切って終了となりました。

しかし様々な要因から、日本の敗北ともいえないという見方もあるのです。

ちなみに日ソ中立条約は終戦間際、ソ連がこれを破って日本に侵攻して来ましたね。それを戦争の結果として、未だに北方領土を占拠している訳です。

何が戦争の結果だって感じですよ

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