列強国の脅威 薩英戦争と下関戦争

戦国~幕末

薩英戦争とは、生麦事件という薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件が国際問題となり、薩摩藩とイギリスの間で武力衝突に発展したものです。下関戦争とは長州藩による外国船に対する攘夷運動の報復として、4ヶ国の連合艦隊が長州藩に攻め込んで発生しました…って感じで

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外国と不平等条約を結んだ井伊直弼も、脱藩した元水戸藩士らにより桜田門外で殺害(桜田門外の変)。尊王攘夷派の動きが活発になる中、幕府は朝廷の権威と幕府の武力を融合すべく、公武合体という政策が進められます。

そんな中、京都へ向かう薩摩藩の大名行列の進行を妨げたとして、薩摩藩士によるイギリス人斬り付け事件が起こります(生麦事件)。下手人を差し出すよう要求する幕府に対し、あくまで無礼討ちを行っただけだと主張する薩摩藩。

結果として世界最強といわれたイギリスと薩摩藩だけで戦争をする事に。長州藩に至ってはそのイギリスとフランス、アメリカ、オランダの連合艦隊と単独で戦う事になります。

その時、幕府は⁉

いや、特に何も…

長州藩 攘夷決行

時の孝明天皇は大の異国嫌いで幕府支持の佐幕派でした。そんな孝明天皇は幕府に対し攘夷を要求。権力も失墜した幕府は朝廷の意向に従わざるを得ず、期限を文久3年(1,863年)5月10日と定め、攘夷を開始する事とします。

ちなみに攘夷とは、簡単にいうと外国排除みたいな主張の事です。

とはいえ幕府としては軍事行動を起こすつもりはなかったのですが、長州藩は違いました。沿岸に砲台を築き、4隻の軍艦と約1,000人の兵を配備します。

そして期日の10日、アメリカの商船ペンブローグ号を砲撃。その後さらにフランスの通報艦キャンシャン号とオランダの軍艦メドゥーサ号も砲撃しました。こちらは死傷者と船の損傷の被害を与えています。

外国船を追い払ったと沸き上がる長州藩でしたが、即座に報復攻撃を受ける事になります。

6月1日、アメリカのワイオミング号が下関港に停泊していた長州藩の軍艦3隻を砲撃により破壊。

6月5日にはフランスの軍艦2隻が関門海峡に入り、壇ノ浦の砲台に一斉砲撃を仕掛けます。さらにフランス軍は兵を上陸させると、慈雲寺に火を放ち砲台を破壊しました。

これにより長州藩は外国との圧倒的な戦力の差を知る事となり、農民、町民からも兵を募り、高杉晋作によって奇兵隊が結成されます。

薩摩藩VS英国

一方、文久2年(1,862年)に起きた生麦事件は国際問題へと発展。翌年、イギリスは幕府に謝罪と賠償金として10万ポンドを、薩摩藩に2万5,000ポンドを要求します。幕府が支払いに応じると、8月6日にイギリスの軍艦7隻が横浜港を出航。11日に鹿児島湾に入りました。

イギリスは犯人の処刑と賠償金の支払いを要求しますが、薩摩藩はこれを拒否。それを受けイギリスは薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕。怒った薩摩藩の砲撃により開戦します。

薩摩藩は先制攻撃によりイギリス艦隊を慌てさせましたが、イギリス軍も最新のアームストロング砲で薩摩藩の砲台や城下町を破壊します。しかし薩摩藩の砲撃によりユーリアラス号の艦長と副艦長が即死。 艦船に損傷も与えました。

この戦いによりイギリス側は13名の死者と50名の負傷者、薩摩藩側は5名の死者と18名の負傷者を出しました。死傷者の数字は善戦の証ですが、 戦力の差を見せつけられた薩摩藩は

「攘夷なんてとてもじゃないが無理」

としてイギリスと講和を結びました。

イギリスも薩摩藩の戦いを評価し友好的な関係を築きます。そして薩摩藩はイギリスの手を借りながら幕府を倒す事を決めるのです。

ちなみに条件だった賠償金は幕府から借りて用立てましたが、返済はしなかったとの事。

まあ踏み倒したという訳ですね。

長州藩VS連合艦隊

一度は痛い目にあった長州藩でしたが、体制を整え関門海峡における外国船に対しての攻撃姿勢を保っていました。

さらには幕府も天皇による攘夷の指示を、横浜港の鎖港という形で取り繕います。

これを受けイギリスとフランス、アメリカ、オランダの4か国で会談の場が設けられ、連合艦隊を結成して長州を攻める事を決定。元治元年(1,864年)6月19日、これより20日以内に関門海峡通航の安全が確保されなければ攻撃を開始すると幕府に通達します。

イギリスに留学中だった長州藩士の伊藤博文井上馨は、戦争になる事を危惧し急ぎ帰国。長州藩と連合軍側との交渉を取り持とうとしますが、説得により長州藩が折れた時にはすでに遅く、8月5日に攻撃が開始されました。

連合艦隊の戦力は軍艦17隻と約5,000人の兵。対する長州藩は約2,000人の兵と砲台。長州藩の砲撃は相手の艦船まで届かず、逆に敵からの攻撃を受け砲台が破壊されます。さらに上陸を許すと地上で交戦。しかしこれも旧式の銃と弓矢、刀と槍では敵うはずはなく、またもや圧倒的な戦力の差を見せつけられる事となりました。

この戦いで連合軍は12名の死者と50名の負傷者、長州藩は18名の死者と29名の負傷者を出しました。しかし死傷者の数はともかく今回も長州藩の大敗となり、高杉晋作により交渉が行われ講和が結ばれました。

そして長州藩も攘夷など無理と悟り、外国から武器を密輸したりして戦力を上げ、討幕へと突き進んでいくのです。

ちなみに講和の条件だった300万ドルは「幕府に請求して下さい!」って事になったのだとか。

一方でこれより少し前、将軍家茂の上洛の警護をする為、江戸で浪士が集められています。そしていよいよ維新志士や新撰組が、動乱の時代を駆け抜けていくのです…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

長州藩も薩摩藩も外国の強さを目の当たりにしても、幕府の姿勢までは支持するつもりはないっていうのは面白いですよね。ただこの時、もしも日本が国として戦って負けていたらどうなっていたのか。そう考えると幕府の行動も間違いではなかったのかもしれませんけどね。

とはいえ自国の防衛も出来ず、もはや金を出すだけの幕府。まるで現在の政府のようですが、崩壊必至の情勢かと思いきや、もう少しだけ頑張ります。

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