日露戦争とは 日本の勝利と日比谷焼討事件

明治~現代

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臥薪嘗胆のけちゅまちゅっ!って感じで

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下関条約では朝鮮の独立を清に認めさせた日本。しかしその朝鮮では親露政権が成立します。そして義理などという概念のないロシアは、日本が三国干渉で手放した遼東半島を奪取(一応借りた)。

さらには清で勃発した義和団事件のどさくさで満州に出兵し占領。一度は交わした撤兵の約束も反故にします。

打倒ロシアの思いを「臥薪嘗胆」で耐えて来た日本。こういった事が原因となり、ついに怒りの反撃が始まろうとしていました…

パーパーパラッパパパ日本人~♪ byえび

日露戦争 開戦

度重なるロシアの無礼な対応に日本国内でもいよいよ開戦の気運が高まる中、日本が提示した妥協案にも乗って来ないロシア。

そして明治37年(1,904年)2月、日本軍が遼東半島の先にある旅順港、さらに朝鮮半島の仁川沖のロシア軍艦に砲撃。ここに日露戦争が開戦しました。

奇襲攻撃という事にはなりましたが、当時は宣戦布告をするという決まりがなかったので問題はなし。ただ2月10日には両国共に宣戦布告がなされてます。

仁川では日本軍が勝利し上陸を果たします。日韓議定書が締結され、日本は韓国内の通行権を獲得。北西の清国、遼陽方面へ進軍していきました。

一方、ロシアは旅順を押さえてから着々と要塞化を進めていたので、日本軍は旅順で厳しい戦いを繰り広げる事となります。

日本海軍は沖から旅順港の攻略を試みますが、これは3回に渡り行われるも成果を上げる事は出来ませんでした。

遼東半島の付け根当たりの南山から上陸していた陸軍は、大連を占領した後に遼陽方面へ向かいます。しかし旅順港の攻略に苦戦しているという連絡を受けると、部隊を分け旅順の援軍に向かいました。

海軍もメンツがあるので陸軍の参戦を拒んでいましたが、最強のバルチック艦隊が動き出す事を聞いて仕方なく受け入れます。ただそんな海軍も黄海での戦いでは制海権を獲得。ウラジオストク方面にロシア艦隊を進めさせませんでした。

旅順の攻略

そして旅順攻略の為に編成された軍は、日清戦争で旅順攻略の経験がある乃木希典大将が率いる事となりました。しかし近代要塞と化した旅順の攻略は難航し、多大なる犠牲者を出しながら進撃を繰り返します。

そんな中で援軍に来た児玉源太郎大将の尽力もあり、旅順港を見渡せる二百三高地の奪取に成功しました。そして旅順港のロシア艦隊に向け遠距離攻撃を開始。こうして旅順要塞を徐々に攻略していきます。

そして明治38年(1,905年)1月、旅順のロシア軍が降伏。

日本軍は死傷者約6万人を出しながらも、旅順攻囲戦に勝利するのでした。

ちなみにこの乃木希典は後に明治天皇の崩御を受けて殉死していますが、この旅順攻略で多くの部下を犠牲にした事をずっと気にされていたそうです。

日本陸軍 連勝の代償

一方、遼陽方面に進軍していた陸軍も、両軍激しく交戦した遼陽会戦で勝利。さらに奉天方面に撤退していったロシア軍を追って行き、引き続き奉天会戦でも勝利しました。

しかし連戦連勝の日本軍も、この時点で甚大なる死傷者を出していてボロボロの状態。

自分たちの戦争(サッカー)は出来たと思います

などとザッケローニ・ジャパンみたいな事は言いませんでしたが、戦争資金の為に増税、また借金も膨らんでいました。

そこで日本はアメリカに頼んで、米大統領セオドア・ルーズベルトがロシアに和議を持ち掛けます。ロシアにはまだ最強のバルチック艦隊が控えていましたが、この頃には国内で革命運動が起こるなどしてその対応にも追われていました。

それでもロシアは和議の申し出を拒否。日露戦争は日本海の海戦へと移っていくのです。

最強バルチック艦隊の参戦

バルチック艦隊の主戦場はヨーロッパなので、日露戦争の参戦には長い航海を経てはるばる日本海へやって来ます。

しかし途中の港は日本の同盟国イギリスの植民地が多く、しかもロシアが日本の魚雷艇と間違えてイギリスの漁船を砲撃した事もあって、イギリス国内でも反ロシアの感情が高まっていました。そうした事からイギリスはロシア船を入港させないなどの処置をとり、間接的に日本を援護する形となります。

日本の連合艦隊を率いる東郷平八郎は、バルチック艦隊はウラジオストクまでの最短ルートをとると予測。対馬海峡沖に主力艦隊を配備しました。

明治38年(1,905年)5月、ついに東郷の予想通り、対馬海峡沖にバルチック艦隊発見の連絡が入ります。

これを受け連合艦隊は出航。長い航海でお疲れのバルチック艦隊を準備万端の連合艦隊が迎え撃ちます。

バルチック艦隊撃破

この時、旗艦「三笠」はZ旗という旗を掲げています。Z旗とは船同士で意思の疎通を図るためのものですが、三笠のZ旗には

皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ

という意味があり、兵の志気を高めました。

諸説ありですが、この日本海海戦で日本の連合艦隊がとった戦術は丁子戦法と呼ばれる作戦。これは艦隊の側面を相手側にするような陣形を取って戦闘を有利に進めようというもの。

さらにそういう陣形に持っていく為に艦隊を急旋回させ、これは東郷ターンなどと呼ばれています。

クライフターンみたいに言うやんって感じですが、東郷ターンの方がずっと先です。

ちなみにクライフターンは、今では小学生でも普通にやるそうです。東郷ターンも今では簡単な技術なのかもしれませんね。

バルチック艦隊はイギリスのおかげで質の悪い燃料しか補給できず、この戦いでも本来のスピードが発揮できなかったという事情もあり、けっきょくこの日本海海戦は日本軍の圧勝で終わりました。

日比谷焼討事件とは

こうして日本軍は各地で勝ち続けましたが、この時点で戦いは1年半に及び、両国共に8万人以上の戦死者を出していました。

さらには物資不足や金銭的な問題もあり、ようやく講和が結ばれる運びとなるのです。

明治38年(1,905年)9月、米大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により、日本とロシアの間で講和条約が結ばれます。これはアメリカのポーツマスで結ばれたので「ポーツマス条約」といいます。

日本は勝つには勝ったものの、互いに戦争を続けたくなかったという事情もありました。そんな訳でポーツマス条約はだいぶロシアに譲歩した内容となり、樺太の南側などの一部領土や周辺での漁業権は獲得するものの、戦争賠償金までは獲れませんでした。

とはいえ日本としては、勝利で終結の為にも妥協するしかなかったのです。

しかし多大なる被害を受けながらも憎きロシアに勝利したのに、賠償金が無いことを知って国民は激怒。戦争の為に増税に耐えてきた事もあり、講和条約調印の日に日比谷公園で、条約に反対する決起集会が開かれようとします。

これに警察が出動し公園を封鎖。怒った民衆が暴徒化し国の施設などを次々に襲撃し破壊していきました。東京は一時、無政府状態となり戒厳令が発令。その後、軍が鎮圧に乗り出した事でようやく治まりました。これを日比谷焼打事件といいます。

そしてロシア国内も、戦時中に起こった革命運動が過熱していきました。

終わりに

いかがでしたでしょうか?

超大国ロシアに、また有色人種の国が白人国家に勝利したのも世界初の出来事です。これは世界中を驚かす結果となり、日本は先進国としての地位を確立すると共に警戒もされていくのです。

ちなみにトルコはエルトゥールル号遭難事件の日本の対応もあって親日といわれていますが、ロシアに勝利した国としても日本を尊敬しているそうです。

203高地の戦いを描いた映画も↓

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