井伊直弼 安政の大獄と桜田門外の変

戦国~幕末

安政の大獄とは、幕府に反発する者たちに対する弾圧。桜田門外の変とは、その安政の大獄を主導した井伊直弼の暗殺事件です…

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有色人種の国を白人国家が植民地支配していく国際情勢の中、幕府大老井伊直弼はアメリカとの通商条約に独断で調印。安政5年(1,858年)「日米修好通商条約」が締結。しかしこれは治外法権と領事裁判権、関税自主権を持たないなど、日本にとって大変に不平等なものでした。

さらに幕府はイギリスとフランス、オランダとロシアとも同じような条約を結んでしまうのです。

そんな中、長州の「松下村塾」では、吉田松陰により多くの志士が育っていました。

しかしこの頃の元号は皮肉にも「安政」

…どこが⁉

弱腰外交と国内政治

幕府が勅許(天皇の許可)を待たずに日米修好通商条約を締結した事で、尊王攘夷派の反発も激しいものになっていきます。

尊王攘夷とは簡単に言うと、天皇を尊び外国を追い出せといった考えです。

ただ幕府もこれまでのように

「これからの日本は外国と交易をして近代化を進めるのだ」

「これは幕府の決定である」

といった感じで堂々と振舞えばまだ良かったのかもしれませんが、いずれにしてもこの頃には幕府の権威もかなり失墜しています。しかもこのような不平等な条約を次々に結んでしまった事は、幕府の外国に対する弱腰な姿勢を民衆に強く感じさせる結果となりました。

しかしそんな幕府も国内には強気で、反対派の水戸藩の徳川斉昭を謹慎にしたり、将軍の後継にはその水戸藩が推す一橋慶喜ではなく、紀州藩の慶福(改名し家茂)に決定しました。そして1,858年、徳川家茂が第14代将軍となります。

ちなみにこの水戸藩というのは御三家のひとつですが、伝統的に天皇を尊ぶ考えが強かったとの事です。

水戸の肛門は有名ですよね…、え?

吉田松陰の松下村塾

そんな折、長州(山口県)の「松下村塾」では武士、町人の隔てなく、吉田松陰により多くの優秀な人材が育てられていました。松陰自身も下級武士の出身です。

そんな松陰の薫陶(くんとう=優れた人による教え)を受けた人をざっと上げても、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文。新時代を築くべく活躍したそうそうたる面々です。

松下村塾では幕府の間違ったやり方を憂い、天皇を中心とした新しい時代を築いていかなくては、といった教えがなされます。

ちなみに桂小五郎は厳密にいうと塾生ではなく弟子との事です。

しかし大老井伊直弼の主導のもと、幕府を批判するものとして吉田松陰は捕らえられしまうのです。さらに将軍の跡継ぎに一橋家を支持したとして、橋本佐内や多くの水戸藩氏も捕らえられ処刑。吉田松陰も処刑されました。

この一連の事件を「安政の大獄」といいます。

こういう事があって、長州藩は討幕へと突き進んでいく訳ですね。ただ、まずは水戸藩士による反乱が起こります。

桜田門外の変

安政7年(1,860年)3月3日、季節外れの雪の中、彦根藩上屋敷から江戸城へ向かう井伊直弼の行列を、脱藩した元水戸藩士らが襲撃。これを「桜田門外の変」といいます。

直弼の乗る駕籠は襲撃隊により包囲され、外から何度も突き刺されました。さらに中から瀕死の直弼を引きずり出し斬首。

この元水戸藩士による襲撃は、わずか十数分の出来事だったといわれています。

襲撃を行った者は逃亡に成功した2名を覗き、自害したり捕らえられ処刑されましたが、ここから尊王攘夷派の動きも激化。時代は幕府の崩壊へと加速していくのです。

このように日本を守ったのか壊したのかよく分からない井伊直弼の晩年でしたが、「一期一会」という言葉を広めた事でも知られています。これは千利休の弟子、山上宗二の「一期に一度の会」という言葉を分かりやすくしたものなのだとか。

寺田屋騒動と生麦事件

そんな中、幕府は公武合体という政策を進めます。これは朝廷の権威と幕府の武力を融合させるというもの。これにより幕府に逆らう事は天皇に背く事、という図式が出来るという訳です。そして文久元年(1,861年)、孝明天皇の妹である和宮が将軍家茂に降嫁されました。

文久2年(1,862年)には薩摩藩(鹿児島県)の島津久光により、藩内の過激派を鎮圧する「寺田屋騒動」が起こります。

とはいえべつに、久光自身が寺田屋に乗り込んだ訳ではないんですけど。

さらに同年、現在の神奈川県鶴見区生麦付近で久光の行列の進行を妨げたとして、イギリス人を薩摩藩士が殺傷するという事件が起こります。これによりイギリス人1名が死亡、2名が重症となりました。

これを「生麦事件」といって国際問題となり、やがて薩摩とイギリスの戦争へと発展するのです…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

外国には弱気で国内に対しては締め付ける…、現在のどっかの政党と変わりませんね。不平等な条約が結ばれて以降、尊王攘夷運動は激化。外国人殺害の事件も多発しています。しかしその尊王攘夷派も、やがて外国の力を思い知る事になります。

ちなみに江戸時代の中で最も安政でなかった元号「安政」の時代は、1,860年に終わりを告げました…

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