明治維新 文明開化 近代化を歩む明治時代

明治~現代

散切り頭を叩いてみれば、バキッボコッザクッ、文明開化の音がする…、前に死んじまうぜぃ⁉って感じで

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明治2年(1,869年)5月18日、箱館戦争の終結により、鳥羽伏見の戦いから始まり1年以上に渡り続いた戊辰戦争も終わりました。そして44年余り続く事になる明治時代が始まりますが、その間に日本は大きく変化していく事になります。ただ現在、外国人に人気の日本文化というのは、だいたい江戸時代で終わりですよね。

まあ後に日本が世界に誇る文化、漫画やアニメが始まりますけどね!!

ちなみに明治維新とは簡単にいうと、幕末の倒幕の動きから明治に入ってからの政治改革などの一連の流れです。

明治時代の始まり

まだ戊辰戦争の最中の明治元年(1,868年)3月、坂本龍馬の「船中八策」と呼ばれる創案が基礎になっった…といわれる「五箇条の御誓文」が明治政府により示されます。旧幕府軍の抵抗が続く中、すでに新しい時代へと動き出しているという訳です。

同時に民衆には、高札に「五榜の掲示」が提示されています。これは道徳を守れ、暴動を起こすなとかで理不尽な要求でもないんですが、中にはキリスト教の禁止という項目がありました。

面白い事に、世界に倣おうといってるにも拘らず、キリスト教は認めないという。ただこれは諸外国からの理解を得られず、後の明治6年(1,873年)に撤廃。黙認される事となりました。

「あ、あくまで黙認なんだからね!!」

さらに同年、神仏分離令が発令されます。これは文字通りなんですが、日本には日本神話からも分かるように、古くから神道というものがありました。そこへ6世紀頃に仏教が大陸から入って来ます。

簡単に言うと、日本に昔から伝わる神様は神社に、仏教の仏様はお寺に祀られている訳です。

ここら辺が長い歴史の中でもうぐちゃぐちゃになっていたので

「神様にも仏様にも失礼ですからね」「ちゃんとしましょうね」

って事で出されたのが神仏分離令です。

未分制度の解消

ようやく戊辰戦争も終わった明治2年(1,869年)6月、明治政府より版籍の奉還が求められます。これは藩は残すけど土地と戸籍は中央へ返還せよとういうもの。これまでの政治は地方分権。明治政府は中央集権を目指していました。これから海外と渡り合おうという中で地方が勝手をやってたらどうなるか…。新政府の中心となった薩摩と長州が、皮肉にも身をもってよく知っているという訳ですね。

さらに新政府により「富国強兵」「国民皆兵」という方針が掲げられます。

これも漢字の通りの意味ですが、経済や軍事を強化し、諸外国に負けない国を目指すというものです。

また同時に四民平等という、身分制度の撤廃も目指します。四民とは江戸時代に確立した「士農工商」の事で、そういうのはもう止めようというもの。

この士農工商も諸説ありで細かい事を言い出したらキリがないので、ざっくり説明すると

「そこまで明確に分けられてないよね」

って感じの言い分みたいです。

ざっくりすぎ!!

でもそりゃそうだろうし、じゃあ誰が士農工商とか言い出したのよ⁉って話よね。

単なる職業区別であって身分制度ではないという意見もあります。だとしても職業選択の自由がそこまであった訳でもないので、それもどうかなという感じもしますが。

いずれにしても完全な撤廃はいきなりは無理で、大名や公家みたいな身分の高かった者を「華族」、一般の武士を「士族」、その他を「平民」としました。さらに明治4年(1,871年)には、「穢多(えた)、非人」と差別されていた人達も平民に認定されます。

穢多というのは動物の死に触れるような仕事を生業としている人達の事。これは毛皮を作ったり、昔は弦楽器の材料も動物から取っていたそうです。

これらを使用するのは比較的身分の高い人だろうけど、作る人は穢れているという訳ですね。非人は犯罪者の家族の事で、そういう差別は止めましょうという事です。

まあそういった定説もその内に変わるかもしれませんけどね。

「穢多、非人という概念は無かった」

とか言い出す人が出て来たり…。それならまだ思い切ってていいんだけど、こういう人は含まれない場合もあったとか、微妙な事を言い出す人がいるんですよね。

もうどっちでもいいわ!!

ちなみに穢多・非人というのは差別用語だからか、一発変換できないな…

岩倉使節団

明治4年(1,871年)5月、ついに中央集権化の集大成として藩を廃止。代わりに府や県が置かれます。これを廃藩置県といいますね。また岩倉使節団が海外の視察に出向。これはアメリカやイギリス、フランス、さらにドイツやロシアといった先進国を、約2年かけて視察する事となります。進んだ文明を目の当たりにし、そうとうなカルチャーショックを受けたようです。

だからこれより10年も前に、勝海舟先生がアメリカを視察して開国の必要性を論じてたのに!!

攘夷とか騒いでたのあんたらでしょうが!?

明治5年(1,872年)10月、群馬県に富岡製糸場が設立。現在では世界遺産に登録されています。これはフランスの技術を参考にした工場で、ここで作られた生糸は大量にアメリカなどに輸出されました。

一時は生糸の生産量が世界一となりましたが、それを支える為に労働力として集められたのは若い女性たち。劣悪な環境の中、長時間労働が行われたのだとか。

さらに同年11月、渋沢栄一により国立銀行条例が制定され、翌年には第一国立銀行が設立されます。渋沢さんは次の一万円札の人…、財布の中に渋沢さんがいっぱいいたらいいな!!

学制と呼ばれる教育制度もこの年に発令。身分や性別を問わず義務教育を受ける事を目指しました。

明治6年(1,873年)1月にはついに徴兵令が出され徴兵制が成立。20歳以上の男子に3年の兵役が義務づけられました。

さらに同年、地租改正。これはそれまで年貢として納めていた米を現金で徴収しようという改正で、国により地価が定められ、土地の持ち主は地価の3%を毎年税として納めるというもの。ただ猛烈な反発に合い、後に2.5%まで下げられました。

征韓論

そしてこの年、明治政府内では征韓論の問題が起こります。この頃、朝鮮とは国交が途絶えていましたが、日本との交易を求めて何度か使者を送るも無視されているという状態でした。そんな中

「まっこと失礼じゃか」

「そん態度はありもうはん」

として、武力で朝鮮を開国させようという考えが征韓論です。

しかし、外国の視察から帰って来た岩倉使節団の面々は

「そんな事はするべきではないちゃ」

「国内を強化する方が先決でおじゃる」

といった考えでした。

先進国の姿を目の当たりにしてきた木戸孝允(桂小五郎)ら海外組と、その間も国内の政治を行ってきたという自負のある西郷さんら国内組の間で対立が生まれてしまうのです。

ただ、西郷さん自体は征韓論者ではないという議論もあります。

明治7年(1,874年)5月には屯田兵制度が出来ます。これは普段は北海道の開拓を行い、有事の際には領土を守る為に戦う兵も兼ねるというもの。また、職にあぶれて苦しい生活を送っていた士族の救済でもありました。

そしてそんな士族の不満を引き受けたのが西郷さんで、やがて日本最後の内戦「西南戦争」が勃発するのです…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

このように明治時代に入ると、新政府により次々と政治改革が行われました。日本の姿も大きく変わっていく中、明治の後半には外国との戦争も起こります。

思いのほか長くなったけど正直、今回はお勉強みたいでつまらなかったね…

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