東北の英雄 伊達政宗の生涯とエピソード

戦国~幕末

ようこそ当サイトへ

東北の英雄アテルイ大谷翔平を取り上げておいて、伊達政宗をやらない訳にはいきません。なので今回は独眼竜で有名な伊達政宗を紹介します!

いや大谷翔平は取り上げてねーよ!

って感じで、ずんだ餅美味しいよね!!

戦国時代の生き字引

江戸幕府も3代将軍家光の時代になると、すでに多くの戦国武将が亡くなっています。そんな中、家光は伊達政宗を「伊達の親父殿」と呼び慕っていました。

戦国時代の生き字引として、政宗から色々と昔の話を聞いていたようです。

若い頃は野心に溢れていた政宗。その口から戦乱の時代が語られていきます…

第17代当主 政宗

独眼竜以外にも、料理上手やオシャレ好きでも知られる伊達政宗。派手で男気があるというような意味の「伊達男」の語源にもなっていますね。江戸でいう所の「粋」って感じですよね。

そんな伊達政宗は1,567年、伊達氏当主伊達輝宗義姫の間に長男として生まれます。幼名を梵天丸。元服(成人するという事)してから藤次郎政宗と名乗っています。政宗は子供の頃に天然痘を患い右目が失明してしまうのですが、それが理由なのか内気な少年だったようです。しかし師である虎哉宗乙の教えもあり勇気づけられると、そんな自分を変える為に醜く盛り上がった右目を潰したのだとか。

その役を政宗に命じられたのは、右腕として生涯政宗を支える事になる片倉小十郎。「もしもの事があれば…」と切腹覚悟で臨んだとの事です。

そして元服すると、13歳で結婚。1,581年に初陣を飾り、18歳で伊達家の家督を継承。第17代当主となり奥州の制覇を目指します。

しかしこの時代って結婚早いよね…

奥州制覇の野望

その後は大内定綱の離反と、その後ろ盾となっていた畠山義継蘆名氏との和睦交渉の決裂により、1,585年に会津に侵攻。小手森城を攻め落とします。この戦いでは相手方を皆殺しにし伊達の強さを近隣諸国に示しました。

これにより和睦を望む畠山義継は和議の為に伊達家を訪れましたが、政宗が不在だった事に魔が差したのか前当主の輝宗をさらいます。鷹狩りに出ていたという政宗も、その知らせを聞くと義継を探し出して追い込みます。鉄砲を突き付けるも人質を取られて動けない政宗に、輝宗は

「自分もろ共こいつを撃て!」

と指示します。

まさかの漫画的展開!!

実の父親と義継を撃ち抜いた政宗は、報復として畠山の二本松城を攻めます。しかし相手方に付いた佐竹氏などの勢力により苦戦。程なくして畠山氏が二本松城を明け渡す事を条件に講和が結ばれました。

1586年に大崎氏で内紛が起こると政宗はこれに介入します。1,587年には秀吉から、大名同士での勝手な戦を禁止するという惣無事令が出されますが、政宗はこれを無視。次第に大崎氏との戦いは拡大していき、やがて政宗の伯父にあたる最上義光が大崎氏側で参戦します。大崎氏とは親戚関係との事。なら政宗とも親戚じゃんって感じですが、この義光の参戦により政宗は苦戦する事になります。

しかしこの戦いに、政宗の母で義光の妹の義姫が止めに入るのです。なんと両軍が対峙する戦線に輿で割って入り、戦いを止めるように懇願します。

これによりいったん停戦されましたが、義姫が3か月近くも居座った為に根負けして和睦が結ばれました。ちなみに今後両者の間で争うような事はなかったとの事です。

この政宗の母は政宗より弟の小次郎を可愛がっていて、政宗に毒入りの食事を出して殺害しようとしたという説があるんですよね。これを受けた政宗は、小次郎を殺害し義姫も実家に逃げ帰ったとの事。ただ親子の仲が悪い感じがないので、この説の信ぴょう性は現在では微妙となっています。

ちなみに、この時の政宗の「これが母親が息子に食わせる初めての料理か~!?」というセリフは名言となっております。

花の慶次~雲のかなたに~という漫画では…

1,589年に会津の蘆名氏を討ち倒すと、政宗は奥州の広域を制圧する事となりました。

秀吉に臣従

奥州はまだ秀吉の支配がそこまで及んでなく、政宗も秀吉と対立する北条氏と同盟を結んでいました。しかし秀吉が北条氏討伐を決めると、政宗のもとにも参戦を要請する書状が届きます。秀吉に降りたくない政宗はこれを保留していましたが、秀吉が編成する軍の戦力を知ると北条氏を裏切り秀吉に付く事に。しかしギリギリの参戦となった事が反抗的な態度ととられ、会津など一部の領地を没収されてしまうのでした。

奥州の大名では大崎氏と葛西氏も改易(武士の降格処分)され、旧領地で一揆が起こります。これは政宗が

「秀吉ムカつくからやっちゃえよ」

と煽ったとされていて、秀吉にも疑われ「弁明せよ」と上洛を求められます。

上洛した政宗は切腹をする時などに着る白装束で秀吉の前に現れ、身の潔白を訴えました。なぜか巨大な十字架を担いでいたそうです。

必死の言い訳が実ってなんとか許されましたが、一部領地を没収され一揆の鎮圧も命じられます。終わったらその土地を治めていいからそこに住めとの事ですが、実質的には左遷みたいなもの。こうして自分で煽った一揆を自分で抑えるという皮肉な結果となりました。

しかし1,973年の文禄の役に参戦した時は、政宗率いる軍勢の派手な装いに京都の住民から歓声が上がったのだとか。

徳川家の家臣に

秀吉が亡くなった後は、家康が天下取りに向けて動き出しますが、政宗の長女と家康の六男が婚姻関係を結び、関ヶ原の戦いの時も東軍で参戦しています。家康は政宗に参戦を要請する際、後に「100万石のお墨付き」と呼ばれる書状を送っています。これは秀吉により没収されたかつての領地を返還するとの事で、今は上杉の領地となっている会津も戦って取り戻しなさいというもの。

関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わりましたが、政宗が福島城の攻略に失敗した事と、同じ徳川派である南部氏の領地で起こった一揆に援軍を送った事が問題視され、「100万石のお墨付き」は果たされませんでした。

江戸幕府が開かれると、幕藩制により仙台藩が誕生。政宗が初代藩主となります。

大坂の陣では、道明寺の戦いで遅れて来た真田幸村と対峙。しかし伊達軍は真田隊により後退させられ、去り際の幸村に「100万いても男はいない」などといわれながらも、兵の疲弊などを理由に追撃をさせませんでした。

しかしそんな政宗も徳川家には忠実に仕えています。1,628年に2代目将軍秀忠を江戸の仙台藩邸に招いた時、側近に

「政宗殿が毒見をしてくれ」

といわれますが、政宗は

「10年も前なら謀反を起こしたかもしれないが、その場合も毒殺など企まず槍で戦ったわ!!」

と、その側近を怒鳴りつけたのだとか。

そうして3代に渡り徳川家に仕える事となり、3代将軍家光には「伊達の親父殿」と呼ばれ慕われました。

晩年の政宗はがんを患い日に日に衰えていきますが、家光は江戸中の名医を集めます。その家光が見舞いに来た時は、病を押しても身なりを整えて迎えたそうです。しかしいよいよ最後の時が近づくと、自分の弱った姿を見せられないと妻子も部屋に入れなかったのだとか。

そして寛永13年(1,636年)5月24日、その生涯を終える事となりました。戦場で死ぬ気であったがここまで生きながらえてしまったと、複雑な思いも語っていたそうです。享年70歳でした。

終わりに

いかがでしたでしょうか?

東北の英雄として名高い伊達政宗ですが、ずんだ餅や仙台味噌を開発した事でも知られていて、それらは仙台名物となってますね。

ちなみに酒好きでも知られ、二日酔いが理由で2代将軍との会見を断った事も。

う~む、伊達に伊達じゃねぇな…

え?

ドラマ観るなら<U-NEXT>

コメント