【豊臣秀吉】天下統一 とエピソード 大名から天下人へ

戦国~幕末

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主君、織田信長の敵(かたき)である明智光秀の討伐に成功した秀吉。信長の掲げた天下統一はいつしか自身の野望となっていきました。

しかし信長の敵を討ったとはいえ、秀吉に織田の家督を継ぐ事は出来ません。この頃の織田家は一応、長男の信忠が家督を継いでいました。

生まれた時は信長に奇妙丸などと名付けられた信忠でしたが、偉大な父に追いつかなければという思いもあり勇敢な武将でした。しかし本能寺の変の直後に光秀軍に襲撃され、信長と同様に信忠も自害しています。

そこで秀吉は、清須会議で織田家の跡取りを決める際に策を講じるのです。

っていう感じで、いつもならさぶいネタでつかみにいくんですけどうっかり本格的に始めてしまいましたが、べつにSEO意識して日和った訳じゃなくて前回の続きだからです。

っつかさぶくもねーわ!!

前回は良ければこちらで→https://gozasourou.com/hideyosi1/

織田家を掌握

この会議で織田家の重鎮「柴田勝家」は三男の信孝を跡取りに推しますが、そこで秀吉は

「信長様は信忠様を跡継ぎに決めていたので、信忠様の息子の三法師様が跡取りとなるのが筋」

と主張します。

それはいいとしてもこの時、三法師わずか3歳。だが、元服するまでは周りの者が支えればいい、そしてそれは自分をおいて他にないという訳です。ここは秀吉の意見が通り

「殿の、おな~り~」

「はは~」

みたいな儀式(正式に何というのか分かりません)の時、秀吉は三法師を抱いてあやす場面を家臣たちに見せつけ、信長の実質的な後継者は自分だという事を印象付けました。

「決して秀吉に平伏した訳ではないぞ」と自尊心を傷つけられた勝家は、信孝と結託して根回しを始めます。

しばらくは妥協案が出たりしながらその裏で思惑が絡んでいきますが、勝家が雪で動けない隙を見計らって秀吉が先制します。

信孝が秀吉に降伏させられると勝家も急ぎ出陣し、こうして1,583年に起こったのが「賤ヶ岳の戦い」です。

しかし勢いはすでに色んな意味で秀吉にあり、この戦いで勝家は敗走する事となります。勝家は北ノ庄城に戻って立て直しを図ろうとするも、すぐに秀吉軍に包囲されてしまい「もはやこれまで」と自害。

この時の勝家の妻は信長の妹の「お市の方」です。浅井長政のもとから3人の娘と共に帰って来ていました。お市の方は3人の娘の保護を求めた後、勝家と一緒に自害しています。長政の時と状況が似ているので何か思う所もあったのでしょう。

秀吉としてもお市の方を救い出したかったのですが、それは敵わずも3人の娘はしっかり保護しました。

しすぎたのかもしれません(監督!!)

後に長女の茶々は秀吉の側室となってます。

秀吉の魅力

ちなみに秀吉は女好きで知られていて、正室のねねが信長に秀吉の浮気の相談をした際、信長から

「あのハゲネズミに他であなたのような女性は見つけられない」

「あなたは奥方として堂々としていればよい」

というような内容の手紙が送られています。この手紙は秀吉に見せてやれとも書いてあったので、秀吉はねねにこっぴどく責められたんでしょう。

ただ、側室ならOKというのは現代人には分からない感覚ですよね。風俗なら浮気じゃないみたいな感じ?

いや、ダメですよね!

所で当時の武将などは男色が嗜みでもありましたが、秀吉はまったくそれには興味を示さなかったといいます。周りの者たちが美少年を当てがった時も

「おまえ、姉か妹はいるか?」

と、その美少年の姉妹の方を狙ったほどなのだとか。

このような美少年の姉妹…、じゅるる…

お馴染みフロイスの日本史では気品に欠けるとか目が飛び出てるとか、身長が低く醜悪な容貌などと散々な書かれようでしたが、この賤ヶ岳の戦いの時は苦しむ負傷兵に、敵味方に拘らず笠を被せて回ったともいわれていています。

そして「こういう人が天下を取るのだろう」などと評されています。

ちなみに複数の証言から、秀吉はどうやら右手の親指が一本多かったみたいです。よく「秀吉 指6本」などと検索されていますが、これは多指症といって全然ありえる事のようです。まあ見た事は無いですがね。

小指の第一関節から先が無い人はたまに見ますけど…。

関白 豊臣秀吉

翌年、今度は信長の次男の信雄と対立。この信雄は伊賀攻めを失敗して信長から絶縁とまでいわれながらもここまで生き残り、ここでは徳川家康の協力を得て秀吉を討ちに出ます。

1,584年、小牧山のふもとで両軍にらみ合いますが、秀吉軍の池田恒興が家康不在の三河を狙うも長久手で討ち取られると、秀吉は徳川軍とやりあうのは悪手とし、さっさと信雄との和睦を結んでしまうのです。これにより家康も戦う理由を無くし、撤収するしかなくなりました。

この辺は策略家で人たらしといわれる、秀吉のらしさが発揮されています。

1,585年には関白となりますが、一説には秀吉は農家出身なので、家柄が問題視されてしまい将軍にはなれなかったのだとか。

そこで室町幕府最後の将軍、足利義昭の養子にしてもらおうとしますが、信長に追放された義昭は当然この申し出を断ります。そこで困った秀吉は、なんとか公家の近衛前久と養子縁組をして関白の座に就いたという訳です。

ただ当然、将軍よりも位は関白の方が上なのですが。

その後、四国をうどん派で統一していた長曾我部元親を降伏させ平定すると、1,586年にようやく我々がよく知る豊臣秀吉と名乗り、翌年には島津義久を降伏させ九州の平定も成し遂げます。

秀吉は問答無用で殺してしまうような事はあまりせず、降伏させれば領地を返したりもしています。そしてそれ以降は味方に取り込んでいくというやり方をしています。

ちなみにこの頃、家臣の不注意で秀吉が可愛がっていた鶴が逃げてしまうのですが、打ち首覚悟でその家臣が報告したところ

「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」

と笑って許したのだとか。

う~む、いいエピソードたくさん持ってるな。

また一般人参加の大規模なお茶会を開くと同時に、刀狩りといって反乱を起こさせない為に、武士以外から武力を奪っていったりもしてます。

天下人へ

1,590年には最後まで抵抗していた小田原の北条を攻めます。北条は戦国の世の幕開けとなった、あの北条早雲の子孫ですね(戦国時代については応仁の乱からという考えもあり)。

小田原攻めの前には北条と組んでいた奥州の伊達政宗も交渉により従がえると、約20万もの軍で進軍し小田原城を囲みます。

孤立無援で籠城する北条は程なくして降伏。小田原城を開城させると、秀吉はついに天下統一を成し遂げる事となるのです。

北条早雲の下克上で始まった戦国の世は、その北条氏の滅亡によって終わるという訳です(戦国時代の終わりは関ヶ原の戦いまでや大坂の陣までという考えもあり)。

しかし秀吉は、信長の家臣だった頃からある野望を信長に持ち掛けています。それは大陸、明の攻略だったのです…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

人たらしとも称される秀吉。力でねじ伏せるような信長とはまた違う、秀吉らしいやり方で天下統一を成し遂げました。けど、実はだからこそなのかもしれません。信長のやり方では時に敵を作りやすいし、よく裏切られましたから。

しかし、フロイスはこの時代に秀吉をボロクソいってよく殺されなかったな。日本人ではとてもじゃないけど無理でしたよね。

そういう意味でもフロイスの日本史は貴重!!

良かったら 秀吉 続き https://gozasourou.com/hideyosi3/

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