関ヶ原の戦いとは 天下分け目の戦い 戦国最後の大花火

戦国~幕末

関ヶ原の戦いとは簡単にいうと慶長5年(1,600年)9月15日、天下取りに動いた徳川と反徳川の豊臣家臣の間に起こった戦いです。徳川(東軍)の勝利で終わりました…って感じで

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安泰かと思われた豊臣政権でしたが、秀吉の死後、徐々に家臣たちの対立と分裂が始まります。するとついにホトトギスは鳴いたとばかりに、徳川家康が天下取りに向けて動き出すのです。家康によって五奉行を退き佐和山城に隠居させられた石田三成は、秀吉への忠義を示し、豊臣家を脅かす徳川家康の打倒を掲げるのでした。

しかし戦国の世をいったんは治めた秀吉…

大義であった!!

確変!!

三成 秀吉との出会い

五大老の一人、前田利家が死去した後は家康の存在感は増すばかりでしたが、豊臣家の忠実なる家臣「石田三成」は家康が豊臣家を脅かすと危惧していました。

そんな三成は1,560年に生まれ、やがて秀吉の小姓として仕える事になります。小姓という字面からなんとなく下っ端みたいな印象を受けますが、実際は側近としてお世話をしたり守ったりする重要な存在で、現在でいうなら秘書とSPを兼ねるような感じですか。

ちなみに殿のムフフなお相手を務める場合も…あったとかなかったとか。ただ秀吉に関しては男色に興味無しとの事。

そんな秀吉はある時、鷹狩りから帰る途中に喉が渇いたと寺に立ち寄り、寺小姓にお茶を出してもらいます。秀吉がもう一杯要求すると、先ほどよりやや小さめの湯飲みにやや熱めの茶が出されました。次には更に小さい湯飲みにもっと熱いお茶が出されます。

寺小姓に理由を聞くと、最初は喉を潤してもらいその後は茶を味わってもらおうという事。細やかな心遣いに感心した秀吉はこの寺小姓を家臣に取り立てたといいます。

その寺の小姓が石田三成で、秀吉からも気に入られ出世していくのです。

関ヶ原の戦い 序章

家康は自身に従おうとしない会津の上杉景勝に「謀反の疑いあり」との言い掛かりをつけ上洛を求めます。京都に来て弁明せよとの事ですね。怒った景勝はこれを拒否し、さらに家臣の直江兼続が

「聞いた風な口をきくなー!」(花の慶次!)

と、直江状といわれる長々と嫌味と挑発をしたためた書状を家康に送りつけました。これに激怒した家康は上杉征伐を決意。会津へ向けて出陣します。

これを好機として三成が動き、家康の拠点となっていた伏見城を攻め落とします。これは三成があらかじめ直江兼続と通じていたという説も。三成は五大老の一人、毛利輝元を総大将として、各地の大名に家康の弾劾状を送ると共に家康の討伐を呼び掛けていました。西軍(三成率いる軍勢)はさらに美濃国方面に進軍していきます。

この知らせを受けた家康は協議の結果、上杉征伐を取り止め三成討ちに向かう事となりました。しかし、会津に到着する気がないかのようなゆっくりとした進軍だったので、これも家康の三成を引き出す為の裏読みだったという説もあります。

西軍に遅れて美濃に入った東軍(徳川軍)の先鋒が岐阜城を攻め落とす頃、家康も江戸城から出陣。こうして1,600年9月15日、天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」が起こりました。

「西と東の大戦争や」by 郷田龍司

天下分け目の大合戦

この戦いは西軍約8万、東軍約7万ともいわれますが、もちろん正確な数字など分かるはずもないので諸説ありです。途中で裏切りもありますしね。開戦からしばらくは先に高所を押さえた西軍が優勢。家臣たちも懸命に戦いました=

小西行長は商人から武将に成り上がり、朝鮮では明との交渉にあたりました。偽の降伏状を用意した事がばれて切腹させられかけたのはご愛敬。

渡辺官兵衛は腕に覚えのある武士で、10万石以下では仕えないと秀吉からの2万石の誘いさえ断りました。しかしそのころ僅か500石の三成から

「わたしは出世して100万石の大名になるから、その時10万石を与える」

「それまではこの500石で頼む」

と誘われると、それは面白いと三成に仕えます。その後、幾らか出世した三成からの石高を上げようとの申し出を、官兵衛は

「100万石の大名になるまではけっこう」

と断りました。

=関ヶ原の戦局は、徐々に一進一退の様相を呈していきます=

猛将、島左近は浪人生活を送っていた時、数々の仕官の誘いを断っていました。三成は武芸に優れ戦略家でもあった島左近が欲しくて、その頃の自身の石高は4万石でしたが、半分の2万石でどうかと持ち掛けます。2万石がどうかというよりも半分という所を意気に感じると、三成に仕えて支えていきます。

その島左近や三成と作戦の事で揉めた島津義弘は、兵を動かす事を止めてしまいます。そんな島津義弘は家臣に気遣いの出来る愛妻家で、秀吉の九州征伐の時には敗れて降伏しますが、切腹を免れ領地も返還されると秀吉に臣従しました。

=両軍停滞する中、家康が西軍の小早川秀秋の陣に向けて発砲すると、小早川約1万6,000の軍が西軍を裏切ります。裏切りの理由は本人から語られる事が無かったのではっきりとは分かりませんが、事前に家康側からの打診があり直前まで迷っていたようです。

この秀秋を要注意として隣に陣取って警戒していたのが大谷吉継。ハンセン病を患っていましたが、それを気にせず接してくれた三成に心を動かされました。なんとか抑えようとするも戦局は一気に東軍に傾き、更なる寝返りも続きます。そしてこの大規模な合戦は、わずか1日で東軍の勝利により幕を閉じるのです。

石田三成の最後

敗走する西軍の兵も、次々と殺害されたり捕らえられていきます。6日後には三成も捕らえられ市中引廻しにされました。

三成はその時に出された柿を

「痰の毒になるから」

と断り

「じきに斬首される者が気にするか」

と笑われると

「小物には分からぬだろうが、大義を持つ者は死ぬ瞬間まで本懐を遂げようとするのだ」

などと答えたのだとか。

捕らえられた時の三成のボロボロの状態を見た家康が

「敗軍の将とはいえ立派な武士」

と敬意を表し小袖を用意させた時も、三成は

「上様から…、それは誰だ?上様は秀頼様以外にない」

と家康からの小袖を拒否しました。

そして慶長5年(1,600年)10月1日、三成は最後まで誇りを失わず、六条河原で小西行長らと共に斬首されるのです。これは重罪として切腹さえ許されなかったという事です。

小西行長はキリシタン大名で、自害を禁止されているので切腹を拒否しています。

その後、関ヶ原の戦いの戦後処理が一通り終わると、1,603年に家康は征夷大将軍に任命され幕府を開きます。2年後の1,605年には早々に息子の秀忠に跡を継がせると、以後の将軍職は徳川で世襲していく事を示しました。

しかし家康には自分が生きている間にやり残している事がありました。徳川安泰の為に、豊臣氏をどう扱うかをまだ決めかねていたのです…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

関ヶ原の戦いは東軍の勝利。こうして江戸幕府が開かれますが、まだもう少し戦いはありますね。少々、石田三成を格好よく書きすぎたかもしれませんが、歴史は勝者によって作られるもの。三成も最近では見直されて来てますよ。

ちなみに、柿はべつに毒じゃないし本当は三成も好物でした。柿の種と間違えたかな…

間違えるか!そして柿の種も毒じゃない!!

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