【永倉新八】神道無念流免許 明治を生き抜いた新選組最強の二番隊組長

戦国~幕末

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新選組で最強は誰かというと、必ず沖田総司斎藤一と共に名前の上がる永倉新八。天然理心流の試衛館に出入りしていながら、神道無念流の免許皆伝。松前藩士の家に生まれながら、剣術修行と称して脱藩したという無類の剣術好きです。

そんな永倉は戊辰戦争の最中、局長の近藤勇と意見の食い違いから新選組を離脱しています。近藤とはそれっきりになりましたが、主要隊士の中で数少ない生き残りの永倉は後年、新選組の朝敵の汚名を晴らす為に尽力しました。

大正2年(1,913年)、小樽新聞で読み物「永倉新八」が連載されます。これは小樽新聞の記者が「杉村義衛」という老人に取材して書かれたもの。この杉村義衛こそ永倉新八その人です。

気が強く何かと近藤とぶつかる事もあった永倉新八。

彼の口から新選組の真実が語られていくのです…

無類の剣術好き 永倉新八

新選組の創設メンバーは天然理心流の道場、試衛館の仲間が多いのですが、永倉もこの試衛館に出入りしていました。しかし試衛館に現れた時にはすでに神道無念流免許皆伝の目録を受けていていたという凄腕。

ただ道場破りに現れて、沖田総司なんかとバチバチにやり合った末に試衛館に居つくようになったというような特に胸アツな展開ではなかった様子です…。

神道無念流は当時、北辰一刀流などと並ぶ有名な流派。一方で天然理心流はさほど知られていない、泥臭い田舎の剣術と思われていたようです。

しかし極めて実戦的な剣術で、名門で免許皆伝を受けてもなお、こういった道場にまでやってくるという永倉の剣術に対する向上心が伺えます。

さらに武家以外の出身者が多い新選組において、永倉は松前藩の歴とした武士でありながら脱藩した浪人でした。

松前藩を脱藩

そんな永倉新八は天保10年(1,839年)4月、江戸の松前藩上屋敷に生まれます。

なので松前藩は現在の北海道ですが、永倉自身は東京生まれ東京育ちという事になります。

幼名を「栄吉」元服して「新八」を名乗ると、無類の剣術好きが高じて剣術修行と称し脱藩。本名の「長倉」姓から永倉を名乗るようになり、ここからよく知られている永倉新八となります。

この剣術修行を行う中、神道無念流の免許皆伝の目録を受けたり、後に新選組で共に活動する島田魁や、新選組離脱後に靖兵隊を結成し共闘する事となる市川宇八郎と出会っています。

そして試衛館に出入りするようになり、稽古後には近藤や土方歳三、沖田ら道場の仲間と共に酒を酌み交わしては

「外国人など隙あらば斬ってしまおう」

などと攘夷論に花を咲かせました。

新選組 結成

そんな折の文久3年(1,863年)2月、将軍「徳川家茂」上洛の警護の為、江戸で浪士組が結成される事になります。浪士組は身分を問わず腕に覚えがあれば誰でも参加可能で、剣で名を上げたい試衛館の面々には渡りに船。永倉もこれに参加します。

浪士組を発案した清河八郎は尊王攘夷論者で、じつはこの浪士組を江戸に戻し、尊王攘夷運動に利用するつもりでした。それに反対し京都に残る事を主張した者たちが京都守護職の会津藩預かりとなり、新たに「壬生浪士組」が結成されました。

京都に残る事を主張したのは近藤ら試衛館の面々や水戸藩出身の芹沢鴨らで、この壬生浪士組が新選組の前身となるのです。

ちなみに永倉は後年、この清河八郎を清河先生と呼んで回想している事から、一目置いてはいたようです。

市中見回りで京都の治安維持活動を始めた壬生浪士組は8月、御所から長州藩を追放するという「八月十八日の政変」に出動。この時の働きが評価されると新たに新選組の名が与えられるのです。

新選組は近藤と芹沢の二大派閥体制でしたが、芹沢一派は京都で「ゆすり」や「たかり」などの狼藉を繰り返し、新選組は京都の住民から「壬生狼(みぶろ)」と呼ばれ嫌われます。

さらにボロを着ていた身なりから、壬生狼をもじって「みぼろ」などと揶揄されました。

そして9月、近藤ら試衛館の面々により芹沢は粛清(実行犯は土方や沖田など)。ここから近藤を局長とする新体制が築かれました。

永倉は試衛館派ながらも、芹沢鴨が神道無念流という事もあって親しかったようです。そうした事情から芹沢暗殺の計画は永倉には知らせられず、その事は永倉にとって少々気に入らない出来事となりました。

池田屋事件

そして元治元年(1,864年)6月、池田屋事件が起こります。

新選組は尊王攘夷派とのつながりが疑われた古高俊太郎を捕らえ、土方らの拷問によりある計画を自白させます。それは京都の街に火を放ち、混乱に乗じて孝明天皇の身柄を確保し長州へ連れ去るというもの。

これについては諸説ありですが、永倉編なのでここでは割愛させて頂きます。

新選組は計画を阻止しようと、三手に分かれて京都の街を捜索。永倉は近藤隊で沖田や藤堂平助らと行動を共にします。その日も終わりに近づいた午後10時過ぎ、旅館池田屋を訪れ

「御用改めである」

近藤が主人に告げると、二階に向かって声をかける主人を制して駆け上がりました。

二階の部屋には約20名ほどの尊王攘夷派がすでに臨戦態勢。

「手向かえば容赦なく斬り捨てる」

先陣を切って沖田が斬りかかります。

しかし乱戦になる中、沖田は持病の発作が出て戦闘不能。藤堂は額を斬られこちらも戦線離脱。屋内は一時、近藤と永倉の二人になります。

激しく交戦する中で永倉の刀が折れてしまい、拳で応戦しながら落ちていた刀を拾って必死で斬り付けました。この時に永倉は左手に深い傷を負ってしまいます。

やがて別動隊の土方らの援軍が到着。戦況は新選組に傾き、程なくしてその場は制圧されました。

ちなみに永倉の話では、この戦いの時も「小手!」「銅!」などと声を発していたそうです。普段の癖が出てしまったのでしょうか。

漫画の必殺技を出す時じゃないんだから…

近藤との対立

池田屋事件の翌月には「禁門の変」という長州藩によるクーデターが勃発。新選組も出動し鎮圧に当たりました。

幕府内での新選組の存在感も増していきます。

続く8月、近藤の横柄な態度を不満に感じた永倉や原田左之助、斎藤一、島田魁、尾関誠一郎、葛山武八郎が、連名で「近藤の非行五ヶ条」を会津藩主の松平容保に提出。

これは五ヶ条の内、一つでも近藤が申し開き(弁明)出来れば我々が切腹。一つも出来なければ近藤に切腹を求めるというもの。

ここは松平容保が間に入りますが、近藤と土方はこの件を治める為に6人の中で一番立場の低かった葛山武八郎一人に切腹を命じます。

この事に抗議した永倉は謹慎処分となっています。

永倉は試衛館以来の仲間ではあっても土方や沖田とは違い門弟ではないし、肝心の剣では誰にも負けないという自負もあったのでしょう。新選組は同志の集団で近藤に仕えている訳ではないという意識が強かったようです。

試衛館以来の仲間で新選組総長の山南敬助が脱走をして切腹を命じられた時も、永倉は山南にこっそり逃げるよう勧めたりもしました。

しかし山南はそれには応じず、沖田の介錯で切腹しています。

隊律違反 再び謹慎

慶応3年(1,867年)元日、永倉は斎藤や伊藤甲子太郎らと共に飲みに繰り出しました。

「ここで帰るのは興ざめ、拙者が万事引き受けるからこのまま飲み明かそう」

芸妓も呼び豪遊する中、門限が迫るも伊藤が言います。

伊藤は新選組参謀の弁舌に優れた論客で、近藤にも一目置かれる存在でした。そして2日、3日と経ち

「もうどうせ我々は切腹だからとことん飲もう」

という事になって、やがて一行は酔いつぶれました。

そしてついに4日目になって、命令を受けた隊士により泥酔した永倉らは屯所に連れ戻されます。

「各々方、どうなるか分かっておるのだろうな…」

酔いつぶれた永倉らを見た近藤は、怒りを噛み殺しそう告げるのでした。

近藤は永倉一人を切腹として治めるつもりだったようですが、土方の働きかけで永倉は謹慎処分となりました。

ちなみに永倉は2回目という事で、他の二人の倍の謹慎6日となっています。

しかしこのすぐ後、伊藤は御陵衛士を結成して新選組を離反しているので、伊藤はこの時、永倉と斎藤を御陵衛士に引き入れるつもりだったのかなとも思えます。

斎藤は間者(スパイ)として御陵衛士に加わったといわれてはいますが。

そしてこの年の11月、油小路事件で伊藤は新選組に粛清されています。

新選組離脱 靖隊隊結成

慶応4年(1,868年)1月、戊辰戦争が勃発すると、新選組もこれに参戦。永倉は決死隊を募り、刀を振りながら突撃したりと活躍します。

ちなみに自分が影響を受けた「壬生義士伝」のTVドラマ版では永倉役を遠藤憲一さんが演じていて、刀で突撃するも鉄砲隊の前に押し返され

「もうこんなもんじゃよぉ、戦(いくさ)出来ねえんだよぉ」

と言って刀を投げつけています。

戦も銃や兵器の時代へと変わっていくのでした。

一夜にして朝敵となった旧幕府軍は江戸に撤退。新選組も多数の戦死者や離脱者を出しながら、残った者は船で江戸に撤退します。

江戸へ着いた新選組は「甲陽鎮撫隊」と名を改め、甲府城を押さえる為に甲州で戦いますが、板垣退助率いる迅衝隊の前に敗走し江戸へ引き返します。

そして永倉は意見の違いから、ここで近藤と袂を分かつ事となるのです。

永倉曰く、近藤と会えなかった為にとりあえず仲間たちで話し合い、後日、近藤に方針を伝えた所

「その様な私議には加盟は出来ぬ。但し、拙者の家臣となって働くならば同意致そう」

と告げられたという事です。

「武士は二君に仕えず、同盟こそすれ家来にはなりもうさん」

永倉は原田らと共に近藤や土方らと別れるのです。

3月、永倉は盟友の芳賀宜道(市川宇八郎)と靖兵隊を結成。一緒に離反した隊士も加わり、旧幕府軍に合流します。

そして4月25日 近藤勇 板橋刑場にて斬首…。

永倉は近藤と喧嘩別れしたまま、二度と再会する事は出来なくなってしまうのでした。

靖兵隊での戦い

永倉の靖兵隊は旧幕府軍と共に宇都宮の戦いに参戦します。

これに旧幕府軍が勝利し宇都宮城を一旦は押さえますが、その後は新政府軍の増援の前に敗走する事となりました。

ちなみにこの宇都宮の戦いには新選組副長、土方歳三も参加し活躍していますが、土方は戊辰戦争最後の地、五稜郭の戦いで戦死しています。

なのでもし永倉がこの宇都宮で土方と再会していなければ、土方とも江戸で別れて以来それっきりとなってしまいます。

ばったり出会って、少しでも昔話に花を咲かせていたらいいですね。

江戸へ帰還

宇都宮から敗走した後、永倉は会津、米沢と転戦。戦況が悪化する中、永倉と芳賀は米沢藩主の雲井龍雄の計らいで米沢藩に潜伏していましたが、そこで会津藩が降伏した事を聞くと一旦江戸へ帰る事に決めました。

町人に扮して関所を越えるも心許ない二人は、ある宿でこちらをチラチラと伺う客に

「もしかして徳川から脱走してきた方ではありませんか?」

と話しかけられます。

二人はもしもの時は絞め殺してしまおうと考え

「いかにもそうだが…」

と答えます。

所がその町人は、自分は元旗本なのでと二人に協力を申し出てきました。

この町人の助けもあり、その後の関所は難なく通過し江戸へと辿り着くのでした。

江戸で潜伏生活を送る中、芳賀は義兄と酒の席での口論の末、義兄とその部下二人に殺害されてしまうのです。

松前藩に帰参 そして松前へ

盟友と死に別れる事となり、さらに旧幕府軍残党への取り締まりが厳しくなる中、永倉はついに松前藩への帰参を願い出る事を決意。これが認められ、永倉の身分は松前藩士に戻りました。

ただ江戸の藩邸への願い出でしょうから、しばらくは江戸で過ごす事になります。

この松前藩の計らいというのは、永倉が元新選組という事を考えると中々のものです。

ちなみに自分が影響を受けた壬生義士伝の主人公、吉村寛一郎も南部藩を脱藩していますが、後に南部藩に帰参を願い出るも

「不義不忠の限りを尽くしておきながら…」

と切腹を命じられています。

ついでにいうと、この吉村寛一郎が新撰組に入隊を願い出た時、腕を見たいという事で御前試合をしますが、その時の相手が永倉でした。

そして吉村が永倉から見事に一本取っています。

壬生義士伝は素晴らしい作品です。

ある日、永倉は両国橋の上で伊藤甲子太郎の弟、三樹三郎とばったり出会いました。

伊藤甲子太郎は新選組参謀で永倉とも親交がありましたが、伊藤は御陵衛士を結成し新選組を離反。伊藤と御陵衛士は後に、油小路事件で新選組に粛清されています。

そんな御陵衛士の生き残りである伊藤の弟は新選組では九番隊組長も務めていたので、当然、永倉の事もよく知っていて、且つ兄の敵と恨んでもいるという訳です。

「貴公は今どこにおらるるかな」

と訊ねてくる伊藤の弟に、永倉は

「拙者は松前藩に帰参いたしてござる」

と答えます。

伊藤の弟は緊張感を漂わせながら

「そうか、いずれお目にかかる機会もござろう」

と告げると静かに去っていきます。

そしてしばらく歩いたのち永倉がふと振り返ると、伊藤の弟は遠くからじっと永倉を見ていたのでした。

数日後には伊藤の一派が松前藩邸の周りをうろつくようになり、さらには米沢藩主の雲井辰雄が政府転覆を企んだという濡れ衣を着せられ斬首。小塚原刑場(現在の荒川区南千住)にて晒し首となります。

永倉は米沢藩で雲井とも関りがあり自分にも捜査が及ぶ事を危惧すると、伊藤一派の件とも併せてここは東京を離れる事を決意。

かねてから誘いのあった婿養子の話を受け、松前(北海道)へ渡る事に決めるのでした。

近藤の慰霊碑

明治4年(1,871年)松前藩藩医、杉村介庵の娘である「きね」と結婚。明治6年(1,873年)には杉村家の家督を継ぎ、杉村治備に改名。後に杉村義衛(すぎむらよしえ)と名乗るようになります。

そして北海道と東京を行き来し、道場や刑務所などで剣術を教えたりしながら過ごします。

刑務所では新選組の永倉だと知ると、受刑者たちが震え上がったのだとか。

明治9年(1,876年)、近藤の斬首の場となった板橋に近藤の慰霊婢が建てられます。これは永倉が奔走し、勝海舟や医師の松本良順の協力を得て実現されました。

一説にはあの三番隊組長で戊辰戦争を生き残った、斎藤一の協力も得たらしいです。二人が明治の時代で交流が合ったのだとしたらアツいですよね。

ちなみに島田魁とはけっこう付き合いが合ったそうです。

明治27年(1,894年)の日清戦争の際は、抜刀隊を組織しての参戦を申し出るも

「お気持ちだけ」

と新政府からはやんわり断られました。

「元新選組の手を借りたとあっては薩長の面目丸潰れという訳かい」

永倉この時55歳…

でも永倉なら「BLACK LAGOON」に出てくる銀さんみたいに、銃弾を刀で真っ二つに斬りそうですけど。

晩年の永倉

永倉の孫曰く、晩年は自分を連れてよく映画を見に行ったとの事です。

永倉はある時、映画館の出口の混雑でよろけた所、地元のやくざ数人が面白がって永倉じいさんを小突き回しました。しばらくして永倉が「むっ」と声を張って睨みつけると、やくざはすごすごと去っていったとの事です。

「おじいちゃん強いんだね」

と孫が言うと

[あんなのは屁みたいなもんだよ」

と永倉は答えました。

幕末を戦い抜いた男の覇気でしょうか。

酒が好きだった永倉は酔っぱらうとふんどし一丁になり

「さあ見てくれ、お国の為に働いた体だ。この傷が俺の誇りだ」

と声を上げたそうです。

そんな永倉の体には幾つもの歴戦の傷跡が刻まれていました。

そして大正2年(1,913年)、小樽新聞で「永倉新八」の連載が始まります。

この連載で永倉を知った東北帝大農科大学(現在の北海道大学)の撃剣部員が、剣術を教えて欲しいと永倉に依頼してきました。家族は高齢を理由に断ろうとしましたが、本人がやる気を出してしまい指導に出掛けていきます。

しかし勢い勇んで竹刀を振るもそのまま倒れてしまい、馬車に乗せられて学生に抱えられながら帰宅しました。

永倉さん…

やがて75歳になった永倉はある日、歯痛を訴え抜歯するも、それが原因で骨膜炎を引き起こし肺血症を併発。

そして大正4年(1,815年)1月5日、永倉新八 永眠

剣術に生きた75年の生涯を終えるのでした…

本稿は試験勉強に役立たないので、学生の方は良ければ以下を参考に

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終わりに

いかがでしたでしょうか?

歴史は勝者によって作られるもの。

とはいえ新選組の汚名はいずれ晴らされたとは思いますが、永倉の尽力がなければそれはもう少し後だったのかもしれません。

こういった活動は息子さんやお孫さんに引き継がれ、現在では新選組が単なる「荒くれ者の人斬り集団」と思われる事もなくなりました。

喧嘩別れでそれっきりとなりましたが、永倉が晩年を過ごした部屋には近藤と土方の写真が飾られていたそうです。

「近藤や土方は若くして死んでしまったが、近藤や土方がこの映画という代物を見たらどんな顔をするかなぁ」

ちなみに永倉と同じように明治を生きた斎藤一も、永倉が亡くなった同じ年に亡くなっています。

老人だからといってはそれまでですが、奇妙な偶然というか…

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