【豊臣秀吉】信長の敵討ち 農民から大名へ

戦国~幕末

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明智光秀の謀反「本能寺の変」によって、ついに織田信長がこの世を去りました。敵に討ち取られることを嫌い、「引かぬ媚びぬ省みぬ」…いや「人間五十年~」と自ら死を選び、光秀の軍勢に首も取らせませんでした。

自身の野望である天下統一は志半ばで終わる事となりましたが、その遺志を継いで我々がゲームの中で成し遂げます!!

信長の野望!!

しかし、真っ先にその遺志を継ぐべく走り出したのはサルと呼ばれた一人の家臣、羽柴秀吉。のちの豊臣秀吉でした。

きゃつめ…

ちなみに「引かぬ媚びぬ省みぬ」は、心の臓と秘孔が逆についてるサウザーの名言です…

農家の息子から武士へ

信長の人生はまさに常在戦場、戦いの連続でしたが、政策の面でも「楽市楽座」や「兵農分離」などの革新的な改革を行いました。家臣の評価も家柄より実力主義で、評価されていた中には黒人奴隷上がりの弥助までいたほどです。

広く知られているように豊臣秀吉も農家の出身で、信長のもとで城持ち大名にまで出世しました。

豊臣秀吉とはのちに関白になってからの名で、初めは木下藤吉郎。長浜城の城主になった辺りで羽柴秀吉と名乗るようになります。

そんな秀吉は1,573年、農家の子として生まれますが、母親の再婚相手と合わず、家出をしては行商をしながら放浪します。その後は今川氏の陪々臣(ある意味三次団体組員みたいな感じ)となりますが、程なくして辞めた後、信長に仕える事となります。

秀吉のエピソードで有名なのは、やっぱり信長の草履(ぞうり)を温めておくエピソードです。

ある冬の日、信長が外に出ようと草履を履くと生温かいので

「おい、草履を尻に敷いたな!」

と怒る信長に、秀吉が

「お寒いので懐で温めておきました」

と返します。

「おいサル、貴様名をなんと申す?」

って感じで信長の覚えも良くなっていったというお話。

これは創作かもしれませんが、このように秀吉は要領が良く頭の回転も早い人だったんですよね。

それは武家の出身ではないのも理由かもしれませんし、秀吉は出世してからも人心掌握に優れていました。

木下藤吉郎から羽柴秀吉へ

1,561年には、「ねね」という娘と恋愛結婚。これは政略結婚が当前の時代にしては珍しい事でした。

その後も秀吉は信長のほとんどの戦に参戦し活躍。1,566年には美濃を攻める拠点とする為、秀吉の案で敵地に墨俣城を一夜で完成させたのは有名な話です。敵地に城を建てるなんて当然ながら攻撃されて難しいのですが、一夜で築いてしまえば問題はなかろうという訳です。

ただもちろんこれは張りぼてみたいなものでしたが、いずれにしろ敵を牽制出来ている間に短期間で仕上げる事に成功しました。

1,570年の金ヶ崎の戦いでは、浅井長政の裏切りに合い敗走する時に殿(しんがり)を務めて逃げ切ると、1,573年には小谷城を攻め浅井親子を自害に追い込みます。

一説によるとこの時に秀吉が浅井長政を説得し、長政に嫁いでいた信長の妹「お市の方」を救い出したともいわれています。信長にも高く評価され、この頃から「羽柴秀吉」を名乗り、やがて長浜城の城主となります。

1,575年の長篠の戦いでは武田軍を退け、1,577年には越後の上杉謙信と戦っていた柴田勝家の援軍に向かいます。しかし、わりと豪傑の勝家が真っ向勝負を主張する中、秀吉は兵糧攻めを主張。作戦を巡り対立すると、秀吉は勝手に自分の軍を引き連れて帰ってしまうのです。

その結果、勝家は上杉軍にボロ負けしてしまい、勝手な行動を取った秀吉は信長に激怒されます。しかしその後の必死の活躍により、なんとか事なきを得るのでした。

以降も信長から中国方面の攻略を命じられ成果を上げていくと、その働きを評価する朱印状を送られています。さらに次々と抵抗勢力を退けていくと、1,582年には備中高松城を水攻めにします。しかし落城も時間の問題となった所で、信長に援軍を要請する書状を送りました。

これは信長に手柄を譲る事で気をよくさせる為だったという説もあります。

「信長様が頼りです」からの「さすが信長様です!」

で悪い気はしないという訳ですね。こういう所が秀吉の要領の良さなんでしょうけど、信長ほどの人ならそういう秀吉のあざとさみたいなものは、当然ながら見抜いた上で評価をしていたのでしょう。

ちなみに水攻めは水で包囲しての兵糧攻めで、物資が無くなる不安と水没の恐怖を同時に与えてやろうというもの。

こわいねぇ~

中国大返し

しかし同年6月2日、明智光秀により本能寺にて信長が自死。光秀はすぐに毛利に協力を求める使者を送ります。しかしその使者は、途中で不審者だとして秀吉軍に捕らえます。秀吉はその使者が持っていた書状から事の次第を知ると、まずは毛利との和睦を急ぎます。

その際には信長の死を隠し、清水宗治の切腹を条件に講和を持ち掛けました。毛利側としては不利な戦況の中「そのような事で?」という好条件なので、当然ながら応じる事となります。

毛利も落城寸前とはいえ条件次第ではごねて来ただろうし、信長の死を知ったらどう出るか分からないので、ここは京都に急いで向かいたい秀吉の見事な交渉でした。けど実際の所は

「あんたらに構っている場合じゃなくなったわ」

といった感じでしょうね。

そして、大軍をわずか10日で200キロ以上を行軍させ、姫路城から明智光秀討伐に向かうのです。これは中国大返しで知られています。

研究で中国大返しは無理だろうという説もありますが、毛利に攻め込んだ後の帰路と考えると、定説通りとは行かないまでも、あながち不可能という事も無いかもしれません。

一方、光秀は味方に付く武将が少なく人集めに苦労していました。しかし秀吉の進軍の知らせを受けると、山崎で迎え撃つ事を決意。約1万の兵を率いて向かい、秀吉軍約3万と衝突したのが「山崎の戦い」です。

この戦いで光秀は敗走し、彷徨う中で落ち武者狩りに合い、竹やりで突かれて敢え無い最後を遂げるのです。本能寺の変からわずか11日目の出来事でした。

秀吉は届けられた光秀の首を本能寺に晒し、ここに主君の敵討ちを果たすのでした。

しかし信長が掲げた天下統一は秀吉自身の野望となっていくのです…

ちなみに使者を捕らえる前にすでに秀吉は信長の死を知っていたという説もあります。中国大返しは無かったという説も含め、定説を覆すような事を言って注目を浴びたいのか、色々とややこしい事を言い出す人が多い訳ですが、まあ常識を疑うような、そういった研究があって歴史の真実が解明されていくというのも事実なのです。

終わりに

いかがでしたでしょうか?

下克上とはいっても、そのほとんどは身分が低くても武家の出身であるのに対し、秀吉は農家の生まれです。そして信長の家臣として武将になりました。ある意味戦国最大の出世劇ですよね。

しかも武芸に優れているという程でもなく、知恵と要領と行動力でのし上がるのです。そういう所も秀吉の人気の一端を担っているのではないでしょうか。

ちなみに光秀の死は自害だったという説もあり、首も光秀との確証は持てないほど痛んでいたのだとか。更にはこの時に死んでおらず、南光坊天海がじつは光秀だという説まであります。

う~む、諸説ありにも程がある…

良かったら 秀吉 続き https://gozasourou.com/hideyosi2/

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