【宮本武蔵】生涯無敗の剣豪 辿り着いた五輪書

戦国~幕末

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剣豪とは武芸に優れた者の総称。戦国時代に活躍した剣豪というと、新陰流の柳生石舟斎や鹿島新當流の塚原卜伝なども有名ですが、なんといっても圧倒的知名度を誇るのは二天一流の宮本武蔵でしょう。

生涯60数試合を戦った中で一度も負ける事は無かったといわれ、様々な創作物の題材にもなっています。しかし勝つ為にはどんな卑怯な手段でも使うという、英雄というのとは程遠い戦い方で勝ち続けました。

あの二刀流も最初は奇襲戦法でしたからね…

宮本武蔵 誕生

宮本武蔵は剣豪で知られていると同時に、水墨画や書道でも優れた作品を残していて、多彩な人物という印象です。

身長は約180㎝という事で、この時代としてはかなり大柄です。ただ前田慶次がたしか約197㎝だったからそこまでじゃないですね。

花の慶次~雲のかなたに~という漫画の話ですが…。

この時代の大名でも武将でもない人物のわりに資料は結構ありますが、お決まりの諸説ありも非常に多めというか、ほぼすべてのエピソードに諸説ありと注釈を入れなければいけないレベルです。

そんな宮本武蔵は天正12年(1,584年)、播磨(現在の兵庫県高砂市米田町)に生まれたとの事ですが、美作国吉野郡宮本村(現在の岡山県英田郡大原町宮本)という説もあります。出生からして諸説ありという訳ですね。

その内に面倒くさくなって注釈入れなくなるかもしれませんが、ご了承頂ければ幸いです。

そして武蔵は幼少の頃に養子に出されます。養子先の父(義父)は優れた剣術家でありながら十手術の使い手で、武蔵はそんな十手術の跡取りとして厳しい修行をさせられました。

父親は苛烈な性格で、ある日ちょっとした事で武蔵が父をからかうと、父が投げた小刀が顔面目掛けて飛んできたのだとか。

「こんな家にいたら殺されてしまう」

武蔵少年はこの時、数日間家出をします。さらに厳しい修行に嫌気がさすと10才で本格的に家を出て、親戚を頼りながら転々としたとの事です。

初戦の勝利 関ヶ原の戦い参戦

そして13歳で最初の決闘。

その頃、武蔵がいた村(佐用町)に有馬喜平という強者がいました。喜平は剣術にも優れていましたが乱暴者の嫌われ者で、武蔵はそんな喜平に戦いを挑みます。

武蔵は足元に転がっていた棒切れを拾って構えますが、それを受けた喜平が刀を抜くと、武蔵は

「よし、俺は素手だ、素手で勝負しよう」

と言い、手にしていた棒切れを捨てました。

子供にそう言われて喜平が刀を鞘に納めようとしたその時!!

一瞬の隙をついて武蔵は喜平に飛び掛かりました。押し倒すとボコボコに殴り、さらに棒切れで滅多打ちにします。

「今日の所はこれくらいで勘弁しといてやる」

こうして初戦を飾った武蔵でしたが、けっきょくやり過ぎて喜平を殺してしまい村を出る事となります。

そんな折の慶長5年(1,600年)、武蔵に名を上げる好機が訪れます。天下分け目の関ヶ原の戦い。これに武蔵は豊臣方の西軍として参戦したといわれていましたが、東軍で参戦したとの説もあります。

いずれにしても足軽としての参加で、大きく戦局に影響を及ぼすといういうものではなかった様子。

その後も武蔵は剣で身を立てようと、天下泰平の時代に逆行するように戦いを続けました。

常在戦場

京都で道場破りを行い、吉岡家の当主吉岡清十郎と洛外蓮台野で戦います。これを木刀の一撃で倒し、敵討ちに来た伝七郎、続き又七郎を撃破。これにより吉岡家は断絶との事ですが、存続したという説もありです。

さらに伊賀国の鎖鎌使いと戦い、この時に脇差も使うという二刀流を閃いたそうです。

これらの戦いも色々と諸説ありですが、この鎖鎌使いは吉川英治作氏の小説「宮本武蔵」の宍戸梅軒で知られ、一応は実在する人物を基にされているとの事です。小説という事でキャラ立ちしていて、武芸者というより野武士集団の頭目として描かれています。

龍が如く見参というゲームでも宍戸梅軒を真島の兄さんが演じていたが、そう思うとはまり役だったな。

そんな中、武蔵は小倉藩剣術指南役の佐々木小次郎という達人の話を聞きつけ、小倉藩に試合を申し込みに行きます。小次郎は3尺の長剣を操る「燕返し」という技の使い手。日本一との呼び声も高い剣豪でした。

そして慶長17年(1,612年)4月、あの有名な巌流島の決戦。創作の武蔵作品でも、この戦いをクライマックスに描かれる事が多い集大成のような戦いです。

激アツな展開となったと思われましたが、達人同士の戦いとは時に一撃で決まるもの。

武蔵と小次郎は互いに剣を構えながらじりじりと円を描くように動き、武蔵が太陽を背に有利なポジションをとると、一瞬の内に武蔵の木刀がヒット。一撃で勝敗は決するのでした。

そう、真剣の小次郎に対し武蔵は木刀だったらしいです。

いや「風魔の小次郎」じゃないんだから…

しかし残念な事にこの勝負も諸説ありで、まず決戦の年からして慶長6,7年説があるし、決戦に武蔵がわざと遅れて来たというのは創作。もっとも武蔵が遅刻をした可能性までは否定できませんが。

それからこの勝負で小次郎が絶命した訳ではなく、勝負がついた後、控えていた武蔵の弟子たちが気を失っていた小次郎を袋叩きにして殺害したともいわれています。また「巌流島」という名前も後からそうつけられたもので、この時は舟島でした。

やっぱり現実はそうドラマティックとはいかないと…

安住の地

その後、大坂の陣でも豊臣方について敗北したといわれていましたが、これも徳川について戦ったという説もあります。これについては武蔵がガッツリ生き残っている事からしても、個人的には徳川側だったのかなとは思います。

それと武蔵は「見の目」と「観の目」が大事との言葉を残しています。見の目とは実際に見える視界で、観の目とはもっと感覚的にとらえるものといった感じです。結果負ける方にばかり付いてたのでは、武蔵自身が観の目がなっていなかった事になりますしね。

日本一の剣豪となったといってもいい武蔵でしたが、その後も仕官先は見つからず転々とする事になります。やっぱり武蔵さんは観の目がなってない感じですね。

まあ武蔵が結構な条件を提示していたというのもあったようですが。

しかし寛永元年(1,624年)、尾張藩から仕官の声がかかり藩主の前で御前試合を行います。武蔵は相手を叩きのめし「これでどうだ」とばかりに結果を待ちますが、藩主からは意外な言葉が返ってきました。

「お主の剣術は危険すぎて誰にも教えられまい」

「勝ちにこだわる性格は偏り過ぎで問題じゃ」

この言葉を受けた武蔵は自分自身が、いつの間にか忌み嫌っていた父親のようになっていた事に気付かされるのでした。

寛永3年(1,626年)、思うところでもあったのか武蔵は伊織という養子を迎え、その伊織と共に島原の乱を戦っています。

島原の乱はキリスト教徒弾圧に対する反乱です。

寛永17年(1,640年)、熊本藩主の細川忠利に取り立てられ、60歳近くになりようやく仕える事となります。そして水墨画や書道に触れ、穏やかに過ごし始めた矢先、藩主の細川忠利が死去。それから武蔵は度々、近郊にある金鋒山の霊巌洞に籠り瞑想します。やがて天啓を得て、勝ち負けにこだわる空しさから解放されるのです。

そして人生の集大成として、地水火風空の兵法の心構えを記した「五輪書」を完成させると

正保2年(1,645年)5月19日、約62年の生涯を終えるのです…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

優れた剣豪の宮本武蔵でしたが、その強さを支えたものは勝ちにこだわった精神でした。しかし晩年になりその空しさを知り、ようやく自身の生きる道を見出すのです。とはいえ優れた剣技の持ち主である事は疑いようのない事実ですし、勝ちにこだわるのも戦場では当然ですけどね。

ちなみに武蔵は大の風呂嫌いで、酷い体臭だったともいわれています。なんでも風呂に入っている時は無防備になっていけないとの事。

文字通り垢を落とした方がいいね…

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