ようこそ当サイトへ
満州事変、盧溝橋事件、上海事変と深まる日中の対立。宣戦布告がなされないまま戦争状態に突入し、停戦協定と軍事衝突を繰り返しながら、いよいよ泥沼化の様相を呈してきました。
第二次上海事件では多くの死傷者を出しながらも、日本軍はこれを退け撤退する中国軍を追って南京方面へ進軍。そして首都の南京を制圧した事で、日本政府は再び和平交渉を持ち掛けます。
しかし蒋介石の国民党はこれを拒否。重慶で防衛線を張り徹底抗戦の姿勢を見せてきます。
そんな中、国の行く末を憂いた汪兆銘という男が重慶を脱出。日本に協力を申し出るのでした…
トラウトマン和平工作
昭和12年(1,937年)12月、日本は当時の首都だった南京を制圧。何十万人もの人が住む大都市での市街戦で多くの民間人が巻き添えになり、また軍服を脱いで民間人に紛れた便衣兵も、大量に捕らえて処刑しました。
この辺が南京事件(南京大虐殺)と言う事のようですが、中国の主張としては日本軍による民間人に対する略奪と暴行が繰り返され、あげく捕らえて大量に殺害したという事です。
その数約30万人…
日本からすれば言い掛かりでもあり(具体的には分からないが)、日中で歴史認識には大きな隔たりがある状況です。
南京事件(南京大虐殺)については良かったらこちら https://gozasourou.com/nankin/
日本軍は撤退していく中国軍をさらに追撃しますが、その一方で中国側に和平交渉を持ち掛けています。
交渉はドイツのトラウトマンを通じて行われていて、これをトラウトマン和平工作といいます。ドイツは日本と日独防共協定という協定を結んでいて、これは共に協力して共産勢力に対抗しようというものでした。
しかし第二次上海事変では裏で
「日本やっちゃえよ」
と中国を煽っていたとされ、軍事的な支援までしていました。
確かに煽ったのは中国共産党ではなく国民党の方なんだけど、日本からするとそりゃねぇぜって感じですけどね。
でも第一次世界大戦の時は日本がドイツの租借地だったチンタオを攻撃していますし、このあと日独伊三国同盟を結んだりと、色々とそれぞれの思惑が絡み合っている訳です。
この時の交渉では一応、中国側に厳しい条件を突き付けた事により交渉が決裂したといわれています。
でも確かに賠償金の支払いとか満州国の承認というのはあったけど、他には概ね協力して共産主義勢力に対抗しようとか、一緒に資源開発をしようなどで、戦況を考えると割と譲歩した内容だと思いますが…。
軍の駐留だって、治安が安定するまでは日本人居留民を守る為にも必要ですし、何しろ
「協力して共産主義勢力に対抗しようぜ」
って言ってるじゃんって話。蒋介石からしたら日本は信用できないみたいに思ってたようですけど、そんなんだから共産党に出し抜かれるんですよ。
みんな大好き共産党謀略説かどうかはともかく、いずれにしても交渉は決裂。次第に泥沼化していくのです。
傀儡政権の樹立
こう言った動きを受け日本の近衛内閣は
「蒋介石の国民政府を相手にしない」
という近衛声明を発表しています。
一方、昭和12年(1,937年)12月14日、すでに制圧していた北京に中華民国臨時政府を樹立。
さらに昭和13年(1,938年)3月28日、南京に中華民国維新政府を樹立させました。
まあどちらも日本の息の掛かった政府ですね。
要するにこの頃の欧米諸国は圧倒的な軍事力を見せつけて植民地支配をしますが、日本はそういう露骨なやり方をせず、現地人に親日政権を樹立させて裏で掌握する訳です。
日本軍はさらに兵を進め徐宗、漢口、広東と攻略していきます。
武漢での戦いにはあの天才投手、沢村栄治さんが参加したといわれています。ジャイアンツで投手5冠など目覚ましい活躍をしていましたが、そんな沢村さんにも召集命令が下りました。戦闘で手榴弾を投げすぎて肩を壊してしまったとの事で、復帰してからは思うように投げられなくなってしまいました。
沢村さんの活躍は良かったらこちら https://gozasourou.com/sawamuraeiji/
こうして日本は中国の東側をほぼ制圧。しかし国民党が防衛線を張った山間の重慶は険しい地形である事から、日本軍も攻略に苦慮する事となります。
汪兆銘の南京国民政府
そんな中、国民党の汪兆銘(おうちょうめい)という男が重慶を脱出し、日本側に協力を申し出て来ます。この汪兆銘は、中華民国初代大統領にして国民党初代総理の孫文(そんぶん)の元側近。日本に留学の経験もありました。
汪兆銘は戦争など早く終わらせて国を発展させようという考えで、中国の民主化も主張していました。そんな汪兆銘の志は立派でしたが、国民党内で汪兆銘に共鳴する者は少なく、裏切り者として党籍は剝奪。暗殺未遂にさえ合いました。
しかし日本にとってはありがたい存在。どうせ蒋介石は話にならないから、この汪兆銘と和平交渉をする事となります。
重慶の方は地形が険しく陸からは攻めにくいので、作戦を切り替え空爆を行う事となります。この空爆は数度行われ、民間人にも多くの死傷者を出しました。
そういえば2,004年に中国でアジアカップが開催されましたが、日本代表が重慶で試合をした時に凄まじいブーイングがあったのを思い出しました。こういう背景があったんですね。
中国は日本と戦争をしてしかも戦場にもなってるので、同じ反日でも根拠のない韓国のとは違いますよ。
昭和13年(1,938年)9月1日、ドイツがポーランドに侵攻した事で第二次世界大戦が勃発。ヨーロッパも徐々に戦火が拡大していきます。
そんな折の昭和15年(1,940年)3月30日、汪兆銘を主席とした中華民国南京国民政府が樹立します。そして北京の中華民国臨時政府や、南京の中華民国維新政府もこれに吸収されました。
11月30日には日華基本条約に調印し、日本はこの汪兆銘の政権を中国中央政府と正式に認定。同時に日満華共同宣言を発表します。これは簡単に言うと
「日本と満州国と中国(汪兆銘の政府)はお互い仲良くやって新しい秩序を作り、世界平和にも貢献しましょう」
というような内容です。
これが機能してここで戦争が終わっていればと思いますよ。そうしたらアメリカとの戦争だってなかったろうし、第二次世界大戦は第一次の時と同じでヨーロッパの戦争になってましたよ、きっと。
共産主義勢力の侵入も許さなかったろうし、もしかしたら現在では満州国は中国に吸収されて、朝鮮や台湾も独立してるかもしれないけど、遺恨もなく友好関係を築けてますよね、きっと。
まあこの汪兆銘の新政府をアメリカは即座に否認していますから、結果はそう変わらなかったかもですが。
曖昧な歴史の真実
とはいえ中国の立場になってみれば、日本のやってる事は内政干渉だし侵略です。中国の立場になってみれば、そして現在の感覚で言えばですよ。
例えばロシアが北海道に侵攻してきて制圧。そして北海道を独立国家と宣言されたら、そりゃあ抵抗するでしょう。戦うも押し返され、やがて東北まで占領された所で和平交渉を持ち掛けられたとします。
「北海道の独立を認め、ロシアと北海道国と日本で協力しよう、賠償金も払ってね」
とか提示されたら、それ受け入れますか?って話ですよね。
いつまで戦争してても仕方ないからってロシアに協力的な政党が出て来て、国民の支持も得てないのに勝手にその政党を日本の中央政府と認定されたらどう思います?
最も日中戦争(支那事変)に至る経緯や背景、また当時の世界情勢ってものもあります。現在の感覚だけで歴史は語れませんけどね。
歴史の真実にしても証拠不十分でけっこう分からない事も多く、その人の解釈や考え方で色々な主張があるものです。
言いたいのは日本だけが悪かった訳じゃなく、日本が悪かったなら戦勝国もそれ同様ですよねって事です。
いずれにしろ満州国と南京国民政府は、国民党からすれば所詮は日本の傀儡政権。
蒋介石が認めるはずはなく、重慶ではすでに攻め手を無くし粘るだけとなっていましたが、その粘る事にこそ意味があったのです。
それは結果アメリカやイギリスの協力を得て、逆に日本は太平洋戦争(大東亜戦争)でアメリカやイギリスまで敵に回す事となるのです…
本稿は受験勉強に役立たないので、学生の方は良ければ以下を参考に
インターネット家庭教師Netty終わりに
いかがでしたでしょうか?
和平交渉を頑なに拒否し、国民党は徹底抗戦の姿勢を見せました。日本軍は抵抗してくる中国軍を次々と退けていき、中国の東側のほとんどを制圧。汪兆銘による親日政府を樹立させました。
しかし日中戦争(支那事変)は、やがて第二次世界大戦の渦に巻き込まれていくのです。
ちなみに2,004年のアジアカップ。重慶でやった準々決勝のヨルダン戦では、PKまでもつれるも日本の勝利。最後は見事に優勝しました。
あざーす!!
最新コミックも600円分無料で読める<U-NEXT>
コメント