【沢村栄治】昭和9年 日米野球での快投と戦争による非業の死

明治~現代

ああ~栄冠は~君に輝く~♪って感じで

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満州事変や国際連盟の脱退により国際社会で孤立気味となった日本。日米関係も悪化していく中、アメリカから伝わったベースボールは日本でも大人気スポーツとなっていました。

そんな折の昭和9年(1,934年)11月、MLB選抜チームが来日。日本でも初のプロチーム「全日本軍」が結成され日米野球が行われます。

MLB選抜のメンバーはベーブ・ルースやルー・ゲーリック、ジミー・フォックスというスター揃い。対する日本の目玉選手は17歳の剛腕投手沢村栄治

そして11月20日、静岡県草薙球場での沢村さんの快投は、現在でもファンの間で語り草となっております…

野球の歴史

沢村栄治は大正6年(1,917年)2月1日、三重県伊勢市に生まれます。父親に半ば強引に野球を教えられ、明倫小学校に入学すると野球部に所属。全国大会に出場するなど知られた存在となり、やがて京都商業(現在の京都学園高等学校)に入学し甲子園大会を目指す事となります。

沢村さん擁する京都商業は、甲子園に春夏通じて3回出場。チームの最高成績はベスト8でしたが、沢村さんは京都予選で1試合23奪三振を記録。また甲子園でも1試合17奪三振を記録するなど、確かな足跡を残しました。そして次は憧れだった慶応大学進学を目指します。

この時代からすでに「野球に青春をかける」みたいな高校球児がたくさんいたんですね。改めて甲子園の歴史を感じます。

そんな野球が日本に伝わったのは明治初期といわれていて、ベースボールが野球と訳されたのは明治の中頃ぐらいです。

ベースボールの発祥は諸説ありですが、18世紀後半ぐらいからその名称が使われ、現在のような形となったのは19世紀の中頃との事です。

なので明治初期なら、わりと日本に伝わったのも早かったという事になりますか。その頃の日本は戊辰戦争も終わり明治維新の真っただ中。国際化と近代化を進めていた頃です。

ちなみに初めてアメリカのチームが日本に来日したのは明治41年(1,908年)で、日本の大学チームなどと試合を行っています。早稲田大学戦では始球式が行われており、日本の元総理で早稲田大学の創始者で知られる大隈重信がマウンドに上がりました。

大隈さんは過激派の爆弾テロで右足を失っていましたが投球を行い、これは暴投となるも忖度した打者がわざと空振り。これ以降、始球式では空振りをするのが慣例となったといわれています。

それからも度々アメリカのチームが来日していますが、昭和9年(1,934年)の日米野球が特に語り継がれているのは、なんといっても沢村投手の快投があった事。そして当時のMLB最大のスーパースターである、ベーブ・ルースが初来日した事が要因となっています。

スター選手 ベーブ・ルース

ベーブ・ルースはMLBでの通算本塁打714本、通算打率3割4分2厘。そして投手としても94勝46敗、通算防御率2.28という成績を残した、言わずと知れたスーパースター。最近では二刀流の元祖としても話題になっています。

最も二刀流という呼び方は日本が勝手に言ってる訳ですけど…。アメリカではツーウェイって言ってますね。

そんなベーブ・ルースは1,895年2月6日、メリーランド州ボルチモア生まれ。両親は酒場を経営していましたが貧しく、忙しい両親からもあまりかまってもらえないという少年時代を過ごします。

ちなみに本名はジョージ・ハーマン・ルース・Jr。ルースの子供っぽい性格と童顔から「ベーブ=赤ん坊」と、のちのチームメイトからあだ名として呼ばれたのがベーブ・ルースと定着しました。

ルースは6歳になる頃にはタバコやウイスキーを覚え、さらには喧嘩に万引きと悪ガキっぷりを発揮。そして手に負えなくなった両親からセントメリー工業学校に預けられます。そこは不良少年の更生施設のような学校でした。ルースはここで恩師である修道士マシアスと出会い、そのマシアスに憧れ野球を始める事になります。

ルースは初め捕手を気に入りプレイしていましたが、ある試合で味方の投手が滅多打ちに合い、その様子がおかしくて笑ってしまいます。それをマシアスに咎められ

「そんなにおかしいなら君が投げてみたらいい」

と言われ、仕方なく投手をやります。

その試合でルースは投手としても非凡な才能を発揮。以降は投手をやる事も増えたのだとか。

19歳になったルースは服の仕立て屋になるつもりで、もう野球は止めようと考えていました。しかしそんな時、地元のオリオールズから契約の打診があり

「好きな野球をやって金が貰えるなんて」

と、プロ入りする事となります。

そこで活躍をするとレッドソックスに移籍。やがてメジャーデビューを果します。

そんな中、自身の出場機会を増やすために投げない日には外野手として試合に出場する事も多くなります。すると打者としての才能も発揮。やがて体の負担も考え徐々に打者に専念していくのです。

その後ヤンキースに移籍し、54本でホームラン王。翌年も59本で2年連続でホームラン王となります。そしてヤンキースはメジャーを代表する強豪チームとなりました。

ちなみにヤンキーススタジアムはルースの為に建てられたとか、太り気味のルースをスリムに見せる為に縦じまのユニフォームに変更されたなどの逸話もあります。

ルースは高額年俸を要求したり、夜遊びにふけって成績不審になったりする事もありました。しかし子供好きなルースは、自身の少年時代の経験もあり慈善活動を熱心に行ったりもしています。

そして1,934年、メジャーを代表するスター選手となったルースは39歳で初来日。

日本のファンの前でプレーをする事になるのです。

日米野球 沢村投手の快投

一方、慶応大学進学を目指していた沢村さんの元に、このMLB選抜と戦う全日本への参加、つまりプロ入りの誘いが来ます。

プロといっても当時はリーグもなく、チームもこの全日本のみ。さらに職業野球を良く思わないという風潮もありました。沢村さんも当然ながら迷いますが、家庭事情やベーブ・ルースに対する憧れもあり、MLB選抜と戦う事を決意。全日本入りし日米野球に参加します。

このルースの来日には、悪化する日米関係の改善に役立つとして、日本の外務省も尽力しています。

東京駅ではMLB選抜チームを歓迎するパレードが開かれ、約20万人の人が詰めかけたそうです。

そして昭和9年(1,934年)11月4日、日米野球が開幕。

初戦(東京倶楽部)の1-17の大敗から始まり日本の4連敗。そして第5試合で沢村投手が登板します。沢村投手の特徴は、足を高く上げたダイナミックな投球フォームから繰り出される剛速球。そして大きく曲がるドロップというボールでした。

しかし3HRを含む12安打、0-10で敗戦投手となってしまうのです。沢村さんは野球人生で初ともいえる挫折を味わわされるのでした。

メジャー選手から「投手は肩を休める事も大切」というアドバイスを受けた沢村さんは、極端な投げ込みを止め休養一杯で次戦を迎えます。

そして11月20日、静岡県草薙球場。第10戦に再び登板。この日の沢村投手の快投が、のちの世までの語り草となるのです。

この試合の沢村投手は、初回からルースを三振に取るなど4者連続を含む9奪三振。8回5安打1失点という好投。取られた得点はルー・ゲーリックに浴びたソロホームランのみでした。

しかし試合は0-1。そのゲーリックのHRの1点が決勝点となり、試合は惜しくも全日本の敗戦となります。

ただこの日の沢村さんの好投は、日米で大きく報道され話題となりました。

けっきょくこの日米野球はMLB選抜の18戦全勝に終わり、ルースは18試合で13本HRという記録を残しています。

ただルースはこの時39歳で、翌年には現役を引退しています。

プロでの活躍

日米野球が終わった12月、この全日本軍をベースに「大日本東京野球俱楽部(のちの読売ジャイアンツ)」が設立。翌年、チームはアメリカ遠征を行い、沢村さんも当然参加しています。

すでにアメリカでも沢村さんは話題となっており、昭和10年の遠征では21勝8敗1分け。昭和11年には11勝11敗の成績を残しています。この間に何度もメジャーに誘われたと言います。

その昭和11年(1,936年)2月、日本野球連盟が設立。チームも増え日本でもプロのリーグ戦が行われました。

沢村投手は9月25日のタイガース戦でノーヒットノーラン。その後も活躍しチームを日本一に導きました。

さらに翌年もMVPや投手5冠など、弱冠20歳にして輝かしい成績を残しています。

しかし昭和13年(1,938年)、沢村さんにも日中戦争(支那事変)への召集令状が下るのです…

戦争に翻弄される若者

沢村さんは中国の武漢で戦い、左手に銃撃を負い負傷。さらに戦場で手榴弾を多投した事で肩を痛めてしまうのです。

思うにプロの投手と聞いた上官から命令されたのではないかと…

復帰した沢村投手に以前のような速球はなく、制球力を生かした投球に変更していましたが、以前のように勝ち星は上げられなくなっていました。

そんな折の昭和14年(1,939年)、第二次世界大戦が始まります。

昭和16年12月には日本の真珠湾攻撃により日米開戦。この年には沢村さんに2度めの招集がかけられています。

ちなみに戦時中は「アウト」や「セーフ」などの野球用語?も「良し」とか「駄目」に規制されていたのだとか。

う~む…

昭和18年(1,943年)巨人(ジャイアンツ)軍に復帰するも活躍は出来ず、翌年の昭和19年(1,944年)には解雇通告。沢村さんは現役引退となりました。

プロでの通算成績は5年で63勝22敗、防御率1.74

しかも全盛期は最初の2年ほどでこの成績です。現役を全う出来ていたら一体どれほどの成績を残した事やら…

さらにこの年には3度目の召集が下り

12月2日、台湾沖で沢村さんの乗った輸送船が撃沈され、沢村さんは戦死したと見られています。

享年27歳でした…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

現在でこそMLBで活躍する日本人投手も増えました。しかしまだまだ力の差が歴然としていた昭和初期に、MLBの並みいる強打者を文字通りきりきり舞いさせる投手が存在していたのです。その功績は沢村賞の名でも称えられています。

ちなみに沢村投手が速球派だった事と記録がない事で、沢村さんの投げる球は何キロだったのかというのは、ファンの間で永遠のテーマとなっています。

ずいぶん前にTVで沢村さんの現役時代を知る千葉茂さんと青田昇さんが、ピッチングマシーンで沢村さんの球速を検証していました。

「これは遅いで」

「こんなもんやない」

「沢村さんの球は浮き上がってくるような球やから」

などと言いながら、さらに出力を上げたマシーンの球を見て

「これや!これが沢村さんの球や!!」

その時に表示していたスピードガンの球速、165㎞

まだ日本人で160㎞を投げる投手もいなかった時代です。

しかもこのお二方は沢村さんを知ってはいますが、全盛期の投球は見た事がなかったという…

また400勝投手の金田正一さんは

「わしの球が新幹線より遅いわけがない」

と豪語していました。

新幹線は当時でも時速200㎞以上…

ロマンあるな~

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