板垣退助の自由民権運動 国会開設と大日本帝国憲法の制定

明治~現代

自由民権運動とはわかりやすくいうとタイトル通りなんですが、憲法の制定や国会の開設を目指した運動の事です…

ようこそ当サイトへ

記事タイトルからしてまったく面白そうな内容が期待できない…

ですがそこを面白く伝える事こそバカ日本史の真骨頂。そしてこの自由民権運動も、過激化する事でテロのような事件も多発しています。

見どころ満載でお届けします…か?

政治結社設立

明治6年(1,873年)、凄い髭で知られる板垣退助は政府内で対立し下野すると、地元の土佐に帰って立志社を立ち上げます。

べつに凄い髭では知られてねーよって感じで、確かに凄い髭だけど…

「趣味は討幕、板垣です」

まあそれはいいとして、これは武力で朝鮮を開国させようという征韓論を主張する板垣らと、それに反対する大久保利通や木戸孝允との対立で、下野とは官職を辞める事です。

この時に一緒に辞めた江藤新平は佐賀の乱を起こし、西郷さんは西南戦争を起こすなど武力で対抗していくのですが、板垣の方は言論で対抗していきます。

「けっきょく薩長の出身者が中心になって藩閥政治をやっている」

板垣は「明治政府が示した五箇条の御誓文にも反しているじゃないか」と主張します。

さらに明治8年(1,875年)、全国に展開する為に大阪で愛国社を結社。これは板垣が政府に復帰したりで自然消滅するも、これを母体とし後の明治13年(1,880年)、国会期成同盟が発足。約8万人の署名を集め、「国会の開設」「憲法の制定」を要求していきます。

そして翌年の明治14年(1,881年)、ついに天皇から国会開設の詔(みことのり)が発布され、10年後に国会が開設される事となるのです。

板垣は来るべき国会開設に向けて、国会期成同盟を母体として自由党を結社します。これはやや急進的な政党でしたが、翌年に佐賀では、大隅重信によりもう少し穏やかな立憲改進党も結成されました。 

ちなみに詔とは、ここでは天皇から出されるお言葉です。

板垣遭難

明治15年(1,882年)4月6日、岐阜で板垣が暴漢に襲われる事件が起こります。この時にあの有名なセリフ

「浜の真砂は尽きるとも…」

は、石川五右衛門だった。板垣のは

「板垣死すとも自由は死せず」

と言い残し…

何とか命に別状はなく療養するのでした。

ちなみに板垣のセリフは自由民権運動を勢いづける為のでっち上げ説が有力ですが、いずれにしろ証拠がありません。

まあフィクションじゃなかったら、こんなタイミングで決めゼリフなんて吐けないとは思うけど。

ちなみに石川五右衛門は釜茹での刑になった安土桃山時代の大悪党です。

いい湯だな~、あははん♪

無敵⁉

自由党の反乱

この頃、伊藤博文が憲法制定の為にヨーロッパを視察。天皇中心の日本には、国王の権限が強いドイツが参考になるとして成果を持ち帰りました。 

一方で板垣も怪我から回復すると、政府支援により後藤象二郎と共にヨーロッパ視察を行いました。最もこれは自由党の活動を良く思わない政府が、指導者不在の間に自由党を弱体化させてしまおうという思惑もあったという説もあります。

いずれにしてもこの板垣が留守の間に、自由党員による数々の事件が起こるのです。

板垣らがヨーロッパに旅立ってすぐの、明治15年(1,882年)11月には福島事件。これは時の福島県令(今でいう県知事)の圧政に、自由党の河野広中らが反抗し逮捕されるという事件で、程なくして政府により弾圧されました。

翌年の明治16年(1,883年)3月には高田事件。これは新潟県高田の自由党員が、政府高官の暗殺を企てたとして逮捕されるという事件。ただこれもほとんどは冤罪だったという弾圧事件です。

続き明治17年(1,884年)5月に群馬事件、9月には加波山事件と、自由党員による武装して政府の転覆を狙った事件が起こります。

こういった党内の過激派と指導部の間で対立が起こり、自由党は解散する事となります。しかし解散前から自由党が関わっていた、困民党なる借金に苦しんだ農民たち約3,000人による、江戸時代の打ち壊しのような大規模な襲撃事件が勃発。これは軍により鎮圧されました。

そしてその後もしばらくは、旧自由党員によるクーデターや暗殺計画などが企てられますが、いずれも未遂の内に鎮圧されています。

う~む自由党、自由過ぎる…

国会開設

そんな折の明治18年(1,885年)、国会の開設に先駆けて内閣制度が発足。伊藤博文が初代内閣総理大臣となりました。

そして明治22年(1,889年)、あの大日本帝国憲法が制定されます。これは天皇を君主とし天皇が主権を持ち、国民は臣民といってあくまでも天皇の家来という位置づけとなります。

まあ天皇様は現人神ですから…

ただこの頃はまだともかく、いうほど政治家は天皇を敬っているようには思えませんけどね。

翌年の明治23年(1,890年)衆議院議員総選挙が行われます。しかしこれは税金を15円以上納めている25歳以上の男子に選挙権が与えられたもので、要するにこれは当時の全人口の約1.1%に過ぎなかったとの事です。

そしてこの年に国会も開設されました。

終わりに

いいかがでしたでしょうか?

これにてどんな説をもってしても明治維新は終了です。これほど様々な改革を行っても、やっとこんな感じです。現在がいかに民主的な政治かが伺えますよね。色々と叩かれてはいますけど。

ちなみにここまでのはあくまでも国内の改革。幕末に諸外国と結んだ不平等な安政の五ヶ国条約はいまだ継続中です。

う~む、井伊直弼…

一期一会いうてる場合か!

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