太平洋戦争(大東亜戦争) 約310万人の犠牲者を出した日本初の敗戦

明治~現代

太平洋戦争とはわかりやすくいうと昭和16年(1,941年)12月8日、日本のマレー作戦及び真珠湾攻撃により始まった、日本と米英など連合国との戦争です。概念としては第二次世界大戦の中に含まれる事となります。

ちなみに元々は太平洋戦争とは連合国側からの呼び方です。日本では大東亜戦争と呼ぶ事に決まりましたが、左派を中心にケチが付き、今では大東亜戦争という呼び方はなんとなくタブーみたいになっております…って感じで

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満州事変から始まる日中の対立は、盧溝橋事件で宣戦布告がないまま戦争状態に突入。上海事変から南京戦と日本軍が勝利し中国の東側をほぼ制圧。中国軍は山間の重慶まで撤退し、すでに地形に守られて粘るだけとなっていました。

そんな中で汪兆銘(おうちょうめい)という男が重慶を脱出し、日本に協力を申し出て来ます。日本は蒋介石(しょうかいせき)の国民党を相手にせずこの汪兆銘と和平交渉を行い、新たに中華民国南京政府を樹立させました。

しかしそれで戦争終結とはならず、米英などを巻き込んだ太平洋戦争へと発展していくのです…

日米の対立

泥沼化する日中戦争(支那事変)の解決の為、日本は米英などが国民党に支援物資を送る「援蒋ルート」の遮断にかかり、フランス領インドネシア政府に圧力をかけます。

そして昭和15年(1,940年)に北部仏印進駐が行われました。

同年9月、日本は更なる日中戦争の早期解決の為として、日独伊三国同盟を締結。アメリカは事前にこの動きを察知し日本に警告していましたが、これを受け日本に対する鉄などの輸出を禁止しました。

さらに11月、日本は日華基本条約に調印し、すでに成立していた汪兆銘の中華民国南京政府を正式に中央政府と承認。しかしアメリカはこれに対し即座に否認の意を表明します。

昭和16年(1,941年)に入り1月8日、東條陸軍大臣から

「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」

という戦陣訓が示されました。

こういう精神が植え付けられているから日本軍は強いんですよね。ただ同時に数々の悲劇を生む事ともなりますが。

4月、日ソ中立条約が締結。さらに南部仏印進駐が行われ、これは援蒋ルートの遮断と共に、マレー半島を日本の支配下に置こうという意図がありました。

これを受けアメリカは日本に対する石油の輸出禁止を求め、またアメリカ国内の日本の資産を凍結。イギリスやオランダもこれに続きます。こうして米英蘭中による日本包囲網、いわゆるABCDラインが敷かれました。

日米交渉の最中、アメリカのコーデル・ハル国務長官は、ハル・ノートで知られる交渉文書を提示。日本に対する中国からの撤兵、市場の解放、また国民党以外認めるな等の条件を突き付けてきます。

日本はこれを承諾できないとして、アメリカとの開戦を決めるのです。

真珠湾攻撃

この時点で日本の石油の備蓄量は約2年分しか無かったとの事で、早期決着を図るのは必至。

昭和16年(1,941年)12月8日、ハワイ真珠湾への奇襲攻撃とイギリス領マレー半島への上陸作戦をほぼ同時に行うという作戦を実行します。

真珠湾攻撃は奇襲作戦で知られていますが、日本軍の作戦としては攻撃が行われる直前に宣戦布告をしてやろうというものでした。

「事前に宣戦布告さえすれば文句は無かろう、例えそれが攻撃3秒前であってもな」

しかし大使館の怠慢という説もありますが、天皇から出された文言もややこしく翻訳に手こずり、けっきょく間に合わずに攻撃後の通告となってしまうのでした。

宣戦布告が事後報告となった事でハル国務長官は激怒。文書を手渡した駐米大使の野村吉三郎を

「このような卑怯な行為を私は知らない」

などと叱責したそうです。

最もあまりのギリギリchopも、国際法上は微妙な所でしょうけど。

ちなみにマレー作戦の方は完全に国際法無視の奇襲攻撃です。そして資源が豊富な東南アジアを、アジアの開放と称し米英などから奪ってやろうというものですね。なにしろ誰かさんのせいで、日本には2年分の燃料しかありませんから。

真珠湾攻撃は空母(航空母艦)が近づいて、そこから戦闘機が次々と出撃して軍事拠点(軍港)を空爆する作戦です。

作戦開始を指示する「ニイタカヤマノボレ」や奇襲成功を伝える「トラトラトラ」などの暗号も有名ですよね。

恋は一途~♪

MAX!!

って感じで、じつはアメリカは暗号が解読できていたけど、開戦を望むルーズベルト大統領によって放置されたという説も根強いです。個人的にはないかなぁと思いますけどね。

いくら当時のハワイは準州だったとはいえ、自国民を戦争の口実の為に捨て駒にするなんて、ちょっと考えられないですよね。

この奇襲作戦自体は成功したと知られていると思いますが、何をもってして成功かというと少々微妙な所です。

というのも戦艦などには壊滅的な被害を与えましたが、燃料庫や船を修理するドックはほぼ無傷。さらに大いに活躍する事になるアメリカの空母は、この時はすべて出払っていてこちらも被害ゼロでした。

要するに「適当に暴れて被害を与え、無傷のまま意気揚々と帰還せよ」という事なら成功なんですが、早期終結を実現する程の被害は与えられていないという訳です。

ましてや戦意喪失どころか「リメンバーパールハーバー」とアメリカを怒らせる結果となってしまいました。

ただ確かに国力では圧倒的な差があるものの、じつは軍事力ではアメリカより日本の方が上回っていたという話もあります。この時にハワイを徹底的に攻撃し、なんだったら上陸して占領していれば、アメリカは相当な苦戦を強いられたという考えもあります。

実際にアメリカもハワイが占領された場合のシュミレーションを行っていて、その時は西海岸の空襲や日本軍のアメリカ本土上陸なども覚悟していたのだとか。

日本軍快進撃

とはいえ早期終結こそ実現できそうにないものの、開戦後しばらくは持ち前の軍事力により日本軍は快進撃を見せました。

マレー半島からシンガポールと攻略。

作戦を指揮した陸軍大将の山下泰文はマレーの虎で知られています。

戦闘終結時の交渉で、敵軍の将であるアーサー・パーシバル中将に降伏を迫り

「謙虚になれよ!!」

と恫喝しました。

それはマネーの虎の小林社長!!

さらに東インドに侵攻。ボルネオ島やジャワ島、スマトラ島や油田地帯のパレンバンを次々と手中に収めました。

アメリカ領のフィリピンも制圧し、連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーは兵を残しフィリピンから脱出。オーストラリアに逃亡しました。

マッカーサーは戦後、GHQとして日本に上陸。グラサンとパイプを加えた映像はよく知られています。

「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」

の言葉でも有名です。

ただ日本が良かったのはここら辺まで。

昭和17年(1,942年)6月、ミッドウェー海戦では、日本の空母4隻と巡洋艦1隻を失う結果となるのです。この頃になるとアメリカは日本軍の暗号をほぼ解読する事に成功していて、これまでのような奇襲攻撃で戦果を挙げる事が出来なくなってしまいました。

追い込まれる日本

8月に入ると米軍がソロモン諸島のガダルカナル島に上陸。激しい戦闘が繰り広げられていきます。周辺海域の戦いでは日本軍が敵艦を沈めたりもしていますが、けっきょくはこのガダルカナル島の日本軍への補給路が断たれ、日本軍はガダルカナル島で多くの餓死者を出す結果となりました。

その後も各地で消耗戦が行われていき、日本が物資の補給に苦慮するようになると戦況は連合軍優勢となり、国民の暮らしも徐々に厳しいものとなっていきます。

「欲しがりません、勝つまでは」

そして戦況打開の為、回天などの人間魚雷や神風特攻隊で知られる特別攻撃隊が編成されるのです。

戦争では多くの兵士が死にますけど、死を覚悟するといってもまだ死ぬと決まった訳ではないです。しかし、これは自爆攻撃ですからね。

一応、断る事も出来たみたいですが、同調圧力でそれは無理ですよ。

こういうのが日本人の精神性なのかもしれませんけど、死んでいった方たちは何一つ悪くはなく英雄ですが、個人的には美談で語る気にはなりません。

特攻隊員を取り上げた、百田尚樹さんの「永遠の0」は素晴らしい作品です。

さらに兵力を増強する為、就学中の学生も戦争に召集する事となります。

この学徒出陣を題材とした、織田裕二さん主演の「きけ、わだつみの声」は名作映画です。

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昭和19年(1,944年)3月から開始されたインパール作戦では日本軍はほぼ全滅。約26,000人の戦死者を出します。

これは援蒋ルートを遮断する作戦だった為、これに失敗した事で中国戦線にも影響を及ぼし、日本軍はあれほど連戦連勝だった日中戦争(支那事変)でも徐々に苦戦を強いられていきます。

続いてサイパン島、グアム島と次々に占領を許し、特にサイパン島を押さえられた事で、アメリカ軍の爆撃機はここから出撃して日本本土を空襲し、燃料がなくならない内に帰還するという事が出来るようになるのです。

一度は占領したフィリピンも、レイテ島やレイテ島沖海戦で激しく交戦するも、最後はアメリカに奪還されました。

さらに昭和20年(1,945年)2月、アメリカ軍は硫黄島に上陸。日本軍はこちらでも激しく交戦するも硫黄島を占領されてしまい、サイパンと同様に硫黄島もアメリカ軍の日本本土空襲の拠点となりました。

クリントイーストウッド監督の「硫黄島の手紙」という映画は有名です。

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そしてアメリカ軍は日本各地を無差別に空襲していき、特に3月10日の夜の東京大空襲では10万人以上の死者を出しました。

さらにアメリカ軍は沖縄に上陸。唯一の地上戦となったこの沖縄戦で日本は、軍人約8万人、民間人約12万人もの死者を出しました。

さんまさん主演の「さとうきび畑の唄」は感動でした。

「こんなことをする為に生まれて来たんじゃないんですよ」

沖縄戦の最中、ヨーロッパでは5月8日にナチスドイツが降伏。ついに連合軍相手に戦ってるのは日本ただ一か国となってしまうのです。

敗戦

日本はいよいよ敗戦濃厚となっていましたが、戦意高揚の為か国民には日本軍の優勢ばかりが伝えられたりもしています。その為、国民には真実が分からず

「日本は神の国だから負けるわけがない」

などと、わりと本気で信じられていたそうです。

事実、日本はここまで負けた事がなかったんですよね。

昭和20年(1,945年)7月26日、ポツダム宣言が発表されます。これは日本に降伏を促すものでしたが、日本はこれを無視。しかしある意味で、これは原子爆弾投下の最後通告でもあったのです。

そして8月6日、広島に原爆投下

さらに8月9日、長崎に原爆投下

原爆による犠牲者は、20万人とも30万人ともいわれています。

そして8月14日、日本はポツダム宣言を受諾。日本の無条件降伏となりました。

翌15日には玉音放送によって、日本の敗戦が国民に知らされるのでした。

堪え難きを~、堪えぇ…

本稿は受験勉強に役立たないので、良ければ以下を参考に

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終わりに

いかがでしたでしょうか?

日中戦争(支那事変)の終結を目指すも英米とは交渉決裂。日本は経済制裁を受け米英との開戦を決意。開戦後しばらくは日本の快進撃が続きましたが、物資不足などから徐々に劣勢となり、やがて敗戦となりました。

この太平洋戦争で、日本は約310万人の犠牲者を出しました。アメリカは約15万人、中国は1,000万人以上の犠牲者といいます。

その方たち一人ひとりに家族や友人がいて、将来の可能性に満ちていた方も多かった事でしょう。

私は出来るだけ中立、かつ正しい歴史を伝えるべきだと考えています。それはあまりにも日本だけ(ナチスも)が悪者にされていると感じたからです。

例えば、原爆投下が戦争終結の為に必要だった?バカ言ってんじゃねーよ。千歩譲ってそうだとして、2発目はどーよ!?って話ですよ。

他にも周辺国に対する謝罪、賠償、配慮。根拠の無い反日。日本が戦争に勝利してても同じ事をいうのかね?

それに実際、東南アジアは植民地支配から開放されていったじゃないですか。

最近はへりくだった考え以外の人が多くなってきたようで心強いかぎりですが、逆に行き過ぎてる主張も見受けられるようになってきました。

「日本は日本人は素晴らしく、何一つ間違った事はやっていない」

という考えを基に、すべてを都合よく解釈している意見を見聞きするのです。

愛国精神は立派ですし、ネトウヨや極右みたいな人達には耳障りもいいのでしょう。太平洋戦争の真実なんてものは証拠不十分でハッキリとは分からない部分も多いので、ただ歴史を学ぶだけならそれも一つの考え方です。

しかしこういう戦争みたいな悲劇を繰り返さない為には、歴史「に」学ぶ姿勢が大切だと思うのです。

その上でやはり、国を守る為に戦うという選択肢も捨ててはいけないのではないでしょうか。

真面目か!!

ちなみにソ連は終戦の間近に焦ったのか突如、日ソ中立条約を破棄し満州に侵攻。日本の降伏後も千島列島の占守島に侵攻してきて、日本軍は仕方なく交戦しています。

実際にすべて武装解除されたのは8月24日でした…

これがロシアの言う戦争の結果…

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