【満州事変とは】学校では教わらない原因と真実

明治~現代

満州事変とは関東軍による自作自演から発生した、関東軍と中国(中華民国)との間の紛争。関東軍が満州全土を制圧し満州国の建国を宣言しました…って感じで

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昭和に入ってからもしばらくは、大正ロマンの流れで戦前最後の開放的な時期を過ごしていた日本。世界恐慌の煽りを受けた、昭和恐慌と呼ばれる未曽有の不況も経験しました。

そんな折の昭和6年、南満州鉄道の線路が爆破されるという柳条湖事件が勃発。これにより中国の国民革命軍と日本の関東軍が武力衝突。こうして満州事変が始まります。

しかしこの柳条湖事件、じつは関東軍による自作自演だったのです…

満州を巡る情勢

よくこの満州事変の辺りから、軍部が暴走し周辺諸国を侵略していったといわれたりします。ただ日本からすれば別に侵略はしてないし、軍部の暴走というのも個人的にはもう少しあとだと考えています。

少なくとも満州事変の本質は決して暴走なんかではなく、一見するとそう見えるという話なだけです。

まず満州とは何ぞやという件からですが、満州とは中国の北東部に位置し、現在の北朝鮮やロシア、またモンゴルなどとの国境に面した、日本の約3倍程度の広さの地域です。

遼東半島

日本は日露戦争に勝利し、ポーツマス条約によりこの満州南部の鉄道、及び領地の租借権を獲得しています。ロシアが満州を不当に占拠していた事も日露戦争の原因のひとつとなりました。

この頃になるとロシア革命が終わりすでにソビエト連邦が樹立されていますが、そのソ連も虎視眈々と満州を狙っているといった状況でした。

関東軍というのは、遼東半島の先端にある関東州に置かれた日本軍の部隊で、のちに満州の首都である新京に移っています。

一方、中国全体では清が1,912年に滅亡。一応、中華民国が成立していましたが、各地の軍閥が独立して勢力争いをしていて、いわば日本の戦国時代のような感じとなっていました。

日本はそんな中国の満州を植民地にしていたのではなく、あくまでも租借地として借り上げ経済活動を行っていました。

まあ治安維持のため軍隊は駐留していましたけど。

日本人居留民ピンチ

日本も初めは好意的に受け入れられ、満州を治めていた張作霖(ちょうさくりん)も日本に協力的でした。

しかし徐々に欧米列強寄りになったり、その欧米列強の支持を得ていた蒋介石の国民革命軍と戦って敗れたりと、日本もこの張作霖の扱いに苦慮する事になります。

そんな折の昭和3年(1,928年)6月4日、張作霖が北京から奉天に向かう際に乗車していた列車が爆発。張作霖は死去しました。

これは関東軍による仕業というのが定説ではありますが、一応「ソ連犯行説」や、息子の「張学良犯行説」もあります。

張作霖の息子である張学良(ちょうがくりょう)が跡を継ぎますが、親子仲は悪かったとも、父のかたきと日本を恨んでいたともいわれています。

いずれにしても張学良は排日的な政策を執ります。さらにソ連が支援する中国共産党の展開する反日プロパガンダの影響で、中国国内で反日感情が高まっていくのです。

反日プロパガンダとは、簡単にいうと

「日本が中国でひどい事やってますよー」

ってな事を言いふらす行為。

こうした背景もあり満州内でも、日本人居留民に対する迫害に近い行為が繰り返し行われていました。

こういった事に耐えかねた満州の日本人居留民は、中国の日本領事館に惨状を訴えます。しかし日本政府は腰が重く具体的な行動をとりませんでした。

昭和2年(1,927年)に起こった南京事件でも、日本と共に被害にあったアメリカやイギリスが報復する中、日本は何もしませんでした。

けっきょく当時の日本政府もなんてことはない、現在とあまり変わらぬ「事なかれ主義」を貫いていたという訳です。

現地にいる関東軍はこうした状況の板挟みで、日本人居留民を守るといってもよほどの事がない限り許可なく軍事行動はとれません。

まして当時、満州に駐留していた関東軍は約1万人。援軍も望めない中、迂闊な行動もとれなかったのです。

それを見越してか、中国の農民と日本領事館の警官が衝突するという「万宝山事件」や、張学良の配下の軍に中村震太郎らが拘束、のちに殺害されるという「中村大尉事件」など、中国側の挑発も相次いで起こります。

そしてソ連の脅威も徐々に近づく中、日本人を守るなら

やるならいましかねぇ~♪

アニキ!!

という感じで、ついに関東軍は満州を押さえるべく行動を起こすのです。

自作自演だった柳条湖事件

作戦を首謀したのは、部下からの信頼も厚かった板垣征四郎大佐や、天才軍師の石原莞爾中佐。

関東軍約1万に対し、国民革命軍(張学良軍)約20万~30万(諸説あり)。

まともに戦ったのではとてもじゃないけど敵わないし、ましてや戦争の口実も必要。

そこで昭和6年(1,931年)9月18日、関東軍は南満州鉄道の線路の一部を爆破(柳条湖事件)。これを国民革命軍のテロとして反撃?に出ました。

こうして満州事変が始まるのですが、このように現地の日本人を守る為に、何もしない政府に代わって関東軍が独断で行ったのが満州事変という側面もあるのです。

そしてソ連の脅威に対抗するためにも、満州を中国から切り離し日本が押さえる必要があったという事です。

これの何が暴走なのか分かりませんし、侵略というなら欧米のそれと何が違うかという話でしょう。

けど権益を求め領土の拡大を図った欧米諸国と、国防のため勢力を拡大していった日本はやはり違います。

しかしもちろん資源を求めてというのも当然の事ながらありました。中国側からすれば

「日本の国防のためか知らんが侵略だ」

という訳です。

ちなみに事変というのは、宣戦布告がされない内に戦争になる事です。

満州事変が起こった事は日本政府にも直ぐに伝わりますが、あーだこーだと対応を協議するぐらいで全く具体案が出ません。

そんな中、林銑十郎朝鮮軍司令官が、独断で朝鮮から軍を率いて越境し関東軍に合流します。

こういった何かが起こる度に、正当かどうかなどを協議するだけの日本政府を関東軍は完全無視。

目の前の戦いを続けていきます。

満州国の誕生

10月18日、張学良の拠点となっていた錦州を偵察と称し空爆。12機の爆撃機で計75発の爆弾を投下しました。

関東軍曰く自衛の為との事でしたが、のちにリットン調査団からは自衛の範囲を超えていると指摘されてしまったのはご愛敬。

引き続き11月8日にはチチハルを占領します。

昭和7年(1,932年)に入ると錦州、ハルピンを次々に攻略。満州のほとんどを制圧しました。

そして2月18日、戦闘開始から半年も経たずに関東軍は、20倍とも30倍ともいわれた敵軍を相手に満州全土を制圧。満州の中国からの独立を宣言。

さらに3月1日、清国最後の皇帝、岡田監督似の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を皇帝とし、満州国の建国を宣言しました。

日本は満州を植民地にする事もできたんでしょうが、そういう露骨なやり方はせずにこうした形を取りました。しかし列強諸国からは、実際は日本の傀儡国家(かいらいこっか)で植民地みたいなものだろうと指摘されてしまうのです。

この頃の列強諸国はみな白人国家で白人至上主義。内心では有色人種国家の日本が力を持つのは気に入らなかったのだと思われます。日本は五大国に数えられるようにはなっていたけど

「アジアの小国がいきがってんじゃねーよ」

「アジアは植民地になってりゃいいんだよ」

ぐらいに思ってたんじゃないですかね。

けっきょく日本が何をやってもケチをつけて来たんでしょう…

ただ当時すでに日本の統治下にあった台湾と朝鮮は、日本に編入されたので日本の一部。高校野球の甲子園大会には台湾と朝鮮の代表校も出場していますが、この満州国からも出場しています。

いくら満州に日本人が多く住んでいたのだとしても、満州が独立国だというならこれは無いかなと思ってしまうというのはあります。

満州事変の事後処理

一方、満州を押さえられた中国は国際連盟に嘆願。自分達が日本人居留民に行った迫害は棚に上げ

「日本にこんな酷い目に合わされました、何とかして下さい~」

てな事を訴えます。

そしてリットン伯爵率いるリットン調査団が国際連盟から派遣され満州入りし、文字通り現地の調査を行いました。

これはソ連に対する警戒や日本側への配慮もあり、わりと公平に行われたとの事です。しかし柳条湖事件が関東軍の自作自演とバレてしまい、また満州は中国の領土であり独立は認められないという内容が発表されます。

ただ同時に満州内での日本の権益は認めるとの事でした。

これを受けた猫好きの犬養毅(いぬかいつよし)総理大臣は

「満州は中国の領土。日本の経済支配下に置くに留める」

として、国際連盟の発表を支持するような考えを表明します。

しかし元々そういう感じだったから、排日運動が起こり満州事変につながった訳でしょう。

そして5月15日、国の行く末を憂いた青年将校たちに犬養総理が暗殺されるという五・一五事件が勃発。

総理官邸に押し入って来た襲撃犯の一人が引き金を引きますが

ガチッ!

その一発は弾が入っておらず不発。

っんな馬鹿な!!

これに余裕を感じたのか、犬養は

「話せば分かる」

やれば出来る

と、襲撃犯の将校たちを応接間に通します。

しかし舐められたと感じたからなのか覚悟なのか、将校たちは犬養を銃撃し去っていきました。

犬養は即死は免れるも重傷を負い

「9発撃って3発しか当たらんとは、軍はどういう訓練をしているのか」

などと言い残し死去しました。

その後、弱腰の政府よりも軍部の方が民衆の支持を得るといった情勢となり、斎藤実という海軍出身の総理大臣が誕生。

そして昭和8年(1,933年)3月27日、日本は国際連盟からの脱退を表明。

この辺から徐々に国際的に孤立していき、軍部の暴走というのも始まっていくのです…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

このように満州事変とは確かに自作自演で始まりましたが、でもそれは決して軍部の暴走などではなく、何もしない政府に代わり、関東軍が独断で自国や自国民を守る為に戦ったというものでした。

少々日本を良く描き過ぎたかもしれませんが、満州を中国から切り離し押さえる事は、大国ソ連から日本を守るという事にもつながったのです。

とはいえ確かに政府や軍上層部の承認を得ずに、一部隊が独断で行動するというのは本来であれば許されない事。そこだけを見れば暴走と映るのは致し方ないですけどね。

だから本当は排日運動や挑発行為がエスカレートする前に、政府が動かないといけなかったんじゃないですか。

現政府にも心得ておいて欲しい所ですよ。

あと周辺諸国への配慮なんだとは思いますけど、こういう事はちゃんと学校で教えるべきだと思いますね。

しかし犬養総理、中々の胆力。享年76歳。

おじいちゃんに酷い事しちゃダメですよ~

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