わたしのわたしの彼は~、左きっき~♪って感じで
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江戸無血開城により事実上、江戸を制圧した新政府軍。敗走しつつもなお交戦の構えを見せる旧幕府の勢力を追って、北へと進軍していきます。
その先には京都守護職を務めた松平容保が治める会津藩があり、戦争の準備をして防衛線を張っていたのでした。
そしてこの地で戦った一人が新選組三番隊組である斎藤一。
悪即斬として必殺技の牙突でまさに一騎当千の活躍をします。
ちょっとるろうに剣心が混ざってる…
「道場剣では人は斬れん」
いや、それは壬生義士伝!!
斎藤一の左利き説は根強いですよね!!
日本刀の切れ味
斎藤一の半生は謎とされる部分も多いのですが、新選組の主要隊士の中では数少ない生き残りだからなのか、創作物で取り上げられる事も多く人気があります。
るろうに剣心では剣心と共闘する事も多く、「悪即斬」や必殺技の「牙突」は少年心を熱くさせました。
「道場剣では人は斬れん」
自分が影響を受けた壬生義士伝ではこの名言が格好良いです。
「人を斬ってきた剣だ、すぐに分かる」
映画版だと主人公の吉村寛一郎の試合を遠目に見ていた斎藤がこう呟いています。
これらの意味する所は、日本刀は鋭利だけどじつは叩いたぐらいでは斬れないというのがあります。
西洋の剣ならばぶった斬るというイメージもありますが、日本刀は当ててから引いたりして滑らす事でスパッと見事な切れ味を発揮するのです。
そこで日本刀には独特の反りがあり、そういった斬り方が実現しやすくなっていて、投信も西洋の剣より薄いです。
つまり道場みたいに木刀や竹刀で頭や手に当てれば一本という、それだけの剣術では実戦では通用しないという事です。
だから前にテレビでびっくり人間みたいな番組があって、日本刀を並べて刃の上を歩いていくという人が出てたけど、間引きした刀を使ったとかのやらせじゃなかったとしても、一応はですが理論上は可能となります。
ただバランスを崩したりした日には真っ二つ。良い子はマネしないように…
するか!!
新選組までの歩み
さて、沖田総司の年齢が諸説ありなのですが、おそらく斎藤の方が沖田より年下で主要隊士の中で一番若かった様子です。創作物では沖田が美少年、斎藤はわりと貫禄があるように描かれる事が多いようですが…
沖田や永倉と並び、新選組で一二を争う程の剣の達人。新選組では副長助勤にして三番隊組長、剣術(撃剣)師範も務めています。
そんな斎藤は天保15年(1844年)1月1日、江戸に生まれます。天然理心流道場の試衛館にも出入りしていたとの事ですが、文久3年(1863年)に将軍上洛の警護のため江戸で結成された浪士組に、試衛館の面々が参加する中、斎藤は不参加。後に京都で合流したといわれています。
一説には斎藤が19歳の頃、江戸で旗本と喧嘩になり斬り殺してしまうのですが、その際に京都へ逃亡して身を隠したとの事です。時期的にもそういった事情から、江戸では浪士組に参加出来ず京都で合流したのだと思われます。
この辺の事は色々と事実かどうかもはっきりしませんが、いずれにしても若き斎藤は新選組隊士として活動していく事となります。
新選組での活躍
京都に着いた浪士組の中で、江戸に帰らず京都に残った者たちで結成された「壬生浪士組」が新選組の前身となります。
壬生浪士組は浪士の集まりで正式な武士ではないので、会津藩預りの非正規な組織として京都の治安維持活動を始める事となります。
新選組については色々書いているので良かったら↓
壬生浪士組https://gozasourou.com/shinsengumi1/
池田屋事件https://gozasourou.com/shinsengumi2/
油小路事件https://gozasourou.com/shinsengumi3/
新選組の中での斎藤は隊律違反を犯した仲間の粛清に多く関わっているとの説がありますが、その辺もいまいち謎です。もっとも暗殺が多かったのならそれも当然と言えば当然ですが。
特筆すべきは伊藤甲子太郎が新選組を離反する際に率いた「御陵衛士(高台寺党)」に、斎藤も加わって一時的に新選組を離れている事です。
これは近藤の指示で伊藤の動向を探る為に、間者(スパイ)として潜り込んだという説が濃厚です。
史実と創作が入り乱れている歴史小説ですが、壬生義士伝の中でもその辺が描かれています。
ちなみにその間に坂本龍馬の暗殺も斎藤が実行したという設定です。
高台寺党に加わった斎藤は伊藤の近藤暗殺計画を暴き、近藤や土方らにその情報を密告。自身も高台寺党を離れ新選組へ復帰し、後の伊藤甲子太郎、及び高台寺党の粛清(油小路事件)に参加しています。
しかし新選組が幕臣に取り立てられ正式な武士、それも旗本となった矢先に大政奉還。そして王政復古の大号令により事実上、幕府は無くなります。
鳥羽伏見の戦いが始まると旧幕府軍について新選組もこれに参戦。斎藤も新政府軍との戦いに身を投じていくのです。
鳥羽伏見の戦いで敗北し江戸へ着いた新選組は、甲府城を押さえる為に「甲陽鎮撫隊」と改名し甲州へ向かいます。しかし板垣退助の率いる迅衝隊の前に敗走。江戸に引き返すと、意見の違いから永倉と原田が近藤のもとを離れました。
斎藤は近藤や土方と行動を共にしますが、流山にて近藤が新政府軍に捕まり、後に江戸無血開城後の板橋で処刑。その後に江戸にて沖田も病死します。
さらに宇都宮の戦いでは土方も負傷のため一時的に戦線離脱。ついに試衛館以来の仲間はバラバラになってしまうのです。
斎藤はそんな土方から新選組を託されるのでした。
会津戦争
新選組隊長となった斎藤は「山口二郎」と名乗り、新選組にとって京都で恩のある松平容保が治める会津に入ります。
新政府の大軍が北上してくる中、慶応4年(1,868年)5月、奥羽越列藩同盟が成立します。これは現在の東北地方に新潟を合わせた連合体で、新政府に対抗する大きな組織となりました。
斎藤率いる新選組は会津藩を守る為、東北の入口に陣を構えます。やがて白河城の南、稲荷山にて新政府軍と衝突。会津戦争と呼ばれる戦いが始まりました。
緒戦は新選組の活躍もあり会津の軍勢が優勢に戦いを進めますが、新政府軍の最新の武器や兵器の前に徐々に劣勢になり白河城を落とされます。
奥羽越列藩同盟の援軍も到着し攻勢を仕掛けるも、白河城を取り戻す事は出来ず撤退。三手に分かれて会津若松城に侵攻してくる新政府軍と交戦していきます。
しかし新政府軍の侵入を防ぐ事は出来ず敗走し、斎藤は会津若松城の松平容保に戦況を報告します。そして容保自身も、16、7歳の少年で編成された予備戦力の白虎隊を引き連れ出陣しました。
そんな中、新政府軍は城下に侵入。容保は会津若松城に引き返す事となりました。
この時、敗走し飯盛山に落ち延びた白虎隊は、城下が燃えているのを見て城が炎上し落とされたと勘違いし「もはやこれまで」と集団自決したとされています。
犠牲者数や自決の理由については諸説ありですが、いずれにしても少年たちが複数自決するという悲劇が起きたというのは事実です。
そして老若男女問わず、約5,000人の住民が会津若松城に集結し籠城する事になります。
戦況の悪化に伴い旧幕府軍の間でも、会津から撤退し仙台などで体制を立て直そうという意見が出ます。
復帰した土方も援軍を求めて北へ向かいますが、斎藤は断固として会津に留まって戦う事を主張。恩のある松平容保への忠義を果たす為、厳しい戦いを続けていくのです。
新政府軍の砲撃を受けながらもなんとか持ちこたえる会津若松城。新選組の少ない隊士を率いてゲリラ戦を仕掛ける斎藤はそこでも獅子奮迅の活躍を見せます。
戦いの終焉
しかし奥羽越列藩同盟の諸藩も降伏や寝返りが相次ぎ、会津若松城の物資も底をつき
「私一人の為に数千の藩士や領民が苦しむのを見るのは忍びない」
ついに容保は9月22日、新政府軍に降伏するのでした。
「もういいんだ、斎藤さん!」
「もう、終わったんですよ…ありがとう、斎藤さん…」
なおも城下で戦い続けた斎藤でしたが、容保の送った使者に説得され投降しました。
ここに新選組、斎藤一の戦いは終わりを告げるのでした。
投降した後は、他の会津藩士と共に越後高田で謹慎。そして斎藤は「藤田五郎」と名を変え、明治の時代も生きるのです。
新たに発足された警視庁に採用され警部補となり、後に起こる西南戦争にも参加。そこでの活躍は新聞に取り上げられる程だったのだとか。
旧薩摩藩士との戦い。
この時の斎藤の胸の内は、今では知る由も無いですが…
本稿は試験勉強には役立たないので、学生の方は良かったら下記も参考に。
インターネット家庭教師Netty終わりに
いかがでしたでしょうか?
新選組時代、斎藤の戦いを見た隊士は、斎藤の剣術を「狂気の剣」と呼んだりもしたそうです。
しかし学校で剣術を教えたりもした斎藤は後年、このように回想しています。
「剣術とはこう来たからこう反すというが、実際に真剣の斬り合いになれば、怖いから必死で刀を振り回すのです」
もうちょっと難しい言い回しでしたが、要約するとこんな感じです。
謙遜してそのように言ったのかは分かりません。しかし無類の強さを誇った斎藤も、やはり人間だという事ですよね。
そんな斎藤も晩年は東京で平和に過ごし、大正4年(1915年)胃潰瘍により約72年の生涯に幕を下ろしました。
新選組として最後に戦った地、会津若松氏の阿弥陀寺に葬られています。
ちなみに斎藤は自分の息子にも、不意打ちを仕掛けては「士道不覚悟」などと武士道を説いていたそうです。
斎藤さんがやるとシャレにならないッス…
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