【桶狭間の戦い】織田信長 うつけ者からの天下布武

戦国~幕末

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いよいよ戦国最大のカリスマ「織田信長」が登場です。

この人の人生はまさに常在戦場というくらい、戦(いくさ)戦の連続。関所の廃止や楽市・楽座などで城下町を発展させたりもしていますが、やっぱり戦い続けて天下統一まであと少しっていう所が、多くの方々が織田信長に惹きつけられる要因だと思うんです。

今回はその前半、うつけ者と呼ばれた子が「非情ノ大剣という大技で」天下布武を掲げるまでを紹介したいと思います。

ちょっと織田ノブナガの方が入っちゃってるね!って感じで「」の部分は無視でいいです…

織田信長 誕生

信長は尾張の武将、織田信秀の三男として1,534年に生まれます。なので、本来であれば家督を継げる立場ではなかったし、織田家自体もいくつかに分かれていました。信長は早くから那古野城の城主になってはいましたが、周りの人達からは「うつけ者」と呼ばれて、少々困った若様と見られていました。

うつけ者とは「愚かな奴」とか「バカとかアホ」などの意味合いが込められていて、傾奇者で分かりやすいなら同じようなものと思ってもらっていいです。

素行の悪いお坊ちゃんて感じですね。服装も奇抜で、袖無しに半袴で腰にはひょうたんを数個携えていたのだとか。

だが、それがいい…

あ、それは傾奇者の前田慶次…

うつけ者 やんちゃエピソード

柿とか瓜を片手に食べ歩いては若者たちを従えていましたが、いたずらや喧嘩ぐらいはしたかもしれませんが、よほどの悪事を働いたというような資料はないようですね、今のとこ。

織田と斎藤の和睦の際、道三の娘「濃姫」と婚姻を結びましたが、これは政略結婚みたいなものなので、信長は織田「弾正忠家」の跡取りとして期待されてはいたのでしょう。

1,552年、信秀が亡くなると信長が家督を継承しますが、葬式の時も奇抜な服装で式の途中に現れ、なんと父の位牌に抹香を投げつけるとすぐに帰っていったのだとか。

傾くなら傾き通せ!!

って、いやいやこれは信長さんさすがにマズいっすよ!

それを見ていた家臣は

「このうつけが当主では織田は滅ぶ」

などとこぼし、信長の弟の信行は

「兄に織田家は任せられない」

と思ったとの事です。そして実際にこの後、信長と信行は家督争いで戦う事になります。

それから信長には平手政秀という教育係みたいな人がいたのですが、この翌年には責任を感じてか自害してしまうのです。平手は信長の素行の悪さを日頃から気に病んでいたようですが、信長に対し平手打ちをするような事もなく、信長自身は平手の事を信頼していました。

いや、平手だけに平手打ちっていうね…。

さすがの信長もこれにはそうとう嘆いて、それが理由かは分かりませんが、大人になってからの信長はそうおかしな事はしなかったようです。

織田家の統一

ただ、信長の奇行というのは若気の至りというのも当然あっただろうけど、そのように振舞う事で見えてくる情報を集めていたともいわれてます。お勉強だけ出来てもそれだけでは役に立たないって事ですかね。

実際に義理の父親となる斉藤道三からの評価も高かったですし、件の葬式に出席していた僧侶の一人も

「ああいうのが大物になったりする」

などと信長の事を評したといいます。

そんな信長は尾張内の敵対勢力との戦いに身を投じ、まずは尾張の統一を目指していきます。

ちなみにこの頃には木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が信長に仕えています。草履を温めておく逸話も有名ですよね。信長からは猿と呼ばれてたようです。

1,556年には長良川の戦いおいて、信長の援軍も間に合わず斎藤道三が息子の義龍によって討ち死にしました。

よき理解者を失った信長でしたが、この頃には勝手に家督を名乗っていた弟の信行と対立。同年、稲生にて戦います。一説によると信行軍1,700人に対して信長軍700人。少ない人数ながらも信長が勝利し信行を追い込みますが、ここは母親が止めに入ったのでそのまま終了しました。

いや兄弟げんかといえばそうなんだけども。

しかし信行は1,558年、再び謀反を企てますが、家臣の裏切りに合い信長にばれ、ついに殺害されてしまいます。これにより織田家の統一が成し遂げられました。

奇襲作戦 桶狭間の戦い

そんな折、駿河(現在の静岡ら辺)の今川義元が上洛(京都へ行く)を計画します。今川義元といえば将軍家の血を引き、一応は海道一の弓取りとして知られています。

けど、どちらかというと公家かぶれで「~でおじゃる、おほほ」みたいな喋りで有名ですよね。

かなり偏ったイメージだな!!

駿河から上洛する際に尾張を通るので、義元はここを抑えておこうと考えます。そして1,560年、尾張に進軍。こうして起こるのがあの有名な桶狭間の戦いです。

今川軍約2万5,000人に対して織田軍約5,000人。信長としては大ピンチですが、清州城での会議もそこそこに信長は寝室に入ってしまうのです。籠城はしない程度しか聞いてない家臣は不安になりますが、信長の中で作戦は決まっていました。

ちなみに籠城とは城での立て籠もり作戦の事で、信長曰くそれはしないという訳です。

信長は夜中に起きると「人間五十年~」で有名な敦盛という舞を舞った後、出陣の号令をかけます。

自分的には「ナゼに舞い?」って感じなんだけど、ダンス好きな人には「分かる~」て思うのでしょうか。

今川軍はいくつかの隊に分かれて進軍して来たので、作戦は今川義元の本隊に絞っての夜襲。途中、熱田神宮で勝利を祈願し禅昌寺のとりでを目指します。

陣を張る頃には近くの鷲津とりでと丸根とりでが陥落していますが、その頃、今川軍は油断をして酒盛りを始めていました。その知らせと嵐が来ると、それに乗じて一気に攻撃を仕掛けます。じつはこれは天候を予測しての作戦だったのだとか。

不意打ちで慌てた今川軍は織田軍の前に敗走。義元も討ち取られますが最後は根性を見せ、首を取りに来た相手の指を食いちぎったといわれています。

「冥土の土産にもらって行くでおじゃる!!」

ちなみに今川に支配されていた三河の当主、松平家の元康(後の家康)は人質のような形で今川に仕えていました。元康もこの戦に参加していますが、敗走の混乱に乗じてちゃっかり三河の岡崎城に帰ってしまいました。

途中、自害しようとして寺の住職に止められたりしたのはご愛敬。そして織田信長と徳川家康の間で同盟が結ばれる事になるのです。

尾張と美濃の平定 岐阜の誕生

1,661年には道三を討ち取り美濃を治めていた義龍が急死。息子の義興が跡を継ぐと、信長はここぞとばかりに美濃に攻撃を開始します。稲葉山城を攻略する拠点にする為、秀吉の策で一夜にして墨俣城を築きました。

これはもちろん張りぼてみたいなものでしたが、敵軍を牽制出来ている間に本格的に仕上げる事に成功。こうして少しずつ秀吉も頭角を現していくという訳です。

1,565年に織田信清を下し尾張の統一を達成すると、1,567年には稲葉山城を攻め落とし義興を追放。美濃を平定し稲葉山城を岐阜城と改め、そしてこの頃から天下布武を掲げていきます。

武力で天下を取るという意味ですね。

しかし今川義元を討ち取った事で、今川と同盟を結んでいたある男を怒らせてしまいます。その名も「武田信玄」。戦国最強と呼ばれた武将です…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

うつけ者などと呼ばれた信長でしたが、それは大物の片りんでもありました。自分流を貫き天下統一へ突き進んでいきます。

名古屋にはオレ竜(俺流)がこの頃から根付いているのでしょうか…?

信長の戦いはまだまだ続きますが、今回はこんな所です。

しかしこの頃は人間五十年か。まあ吾輩は10万50歳まで生きるから、あと何年だ?

…いやだから、むかし聖飢魔Ⅱっていうバンドの設定があって…

いっそのこと死なせて下さい!!

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