幕臣へと上り詰めた新選組 裏切り者の粛清 油小路事件

戦国~幕末

ようこそ当サイトへ

武士や侍というと忍者と並び、現在では外国の方にも広く知られていて人気があります。

「武士の情け」や「武士は食わねど高楊枝」などの武士にまつわる言葉も多いですし、日本男児なら一度は憧れてしまうものです。

しかし日本人であっても現代人には理解できない作法みたいなのも多いし、外国人ならそれはなおさらだと思います。

Oh、ハラキリ⁉

本稿ではそんな武士に憧れ、誰よりも武士らしく在ろうとした新選組の油小路事件を取り上げます。

「すべての不義に鉄槌を」

それはBLACK LAGOONのロベルタ…

身分制度による武士

戦国時代などは戦(いくさ)も多かったし、農民も駆り出されたりして、そこで手柄を上げれば出世する事も出来ました。しかし天下泰平の江戸時代では身分制度と世襲制が確立され、武士以外の身分で武士になるというのは中々に無い事でした。

さらに手柄を上げるような戦もなく、武士の中でも下級武士の家は下級武士のまま世襲していくのです。

浪士の集団である新選組も正式な武士ではなく、今でいうと下請けや派遣みたいな感じでの活動でした。

しかし幕末の動乱の中、池田屋事件や禁門の変などでの活躍で、幕府内での新選組の存在感は増していき、京都の街、延いては全国的にとその知名度も高まっていきます。

局中法度

新選組は元治元年(1,864年)、禁門の変での活躍で恩賞を受けると、江戸で新隊士の募集を行います。

この際、藤堂平助と同門だった伊藤甲子太郎を加入させていますが、この伊藤甲子太郎は勉学に優れ、北辰一刀流の道場主に認められ婿入りするなど文武両道の人でした。弁舌にも優れた論客で、新選組でも参謀役となります。

新選組は「無法者の人斬り集団」みたいな印象もありますが、浪士の集団を統制する為、士道不覚悟や私闘禁止などの厳しい掟がありました。これは局中法度で知られています。

これを破ると切腹や、場合によっては斬首。脱退も許されず、逃亡者には追手が向けられ殺害されたりもしています。新選組は戦闘で死ぬより、隊内で粛清された者の方が多い程なのだとか。

この辺が幕末の四大人斬りと呼ばれる薩摩の田中新兵衛中村半次郎、また土佐の岡田以蔵や漫画「るろうに剣心」のモデルとなったといわれる河上彦斎などと新選組が違う所でしょう。

山南敬助の切腹

慶応元年(1,865年)には脱走を図ったとして、総長の山南敬助も切腹しています。

この山南は試衛館時代からの仲間で、新選組では局長に次ぐ総長という立場でした。温厚な人柄で人望もあり、沖田総司も慕っていたといいます。しかし新参者の伊藤甲子太郎が自分より上の地位に付いたり、屯所移転の方針などで近藤や土方と合わず、「江戸へ行く」と置手紙を残して新選組を去るのです。

しかし新選組には脱走は切腹という掟があります。たとえ山南でも

「これを見逃せば他の隊士に示しがつかない」

として、それでも山南をおもんばかってか沖田だけに山南を追わせます。

山南は沖田により屯所に連れ戻されるとすでに覚悟は決めていた様子で、沖田に介錯を頼み切腹。沖田は慕っていた山南の首を刎ねるのでした。

う~む…

伊藤甲子太郎の離反

その後、新選組は屯所を西本願寺に移転します。この頃には隊士の数も200名を超えるまでになっており、やがて新選組は最盛期を迎えます。

しかし慶応2年(1,866年)1月には薩長同盟が結ばれ、新選組に召集はかからなかった第二次長州征伐では幕府軍が敗北。慶応2年(1,867年)12月には佐幕派(幕府支持)の孝明天皇が崩御されます。

そんな幕府にとっては逆風の中、家康公の再来といわれた徳川慶喜が第15代将軍となっていました。

ちなみに孝明天皇の死には暗殺説も根強くあります。これは長州支持派の公家による毒殺ではないか、というものです。

新選組では慶応3年(1,867年)の3月、伊藤甲子太郎が御陵衛士を結成し、藤堂平助や斎藤一らを率いて新選組を離脱します。御陵衛士とは孝明天皇の墓を守りつつ薩摩と長州の動向を探るというもので、高台寺の月真院を屯所とした事から高台寺党とも呼ばれています。

ただこれは、伊藤が新選組とは考えが合わなくなっていた事が離脱の本当の理由です。

伊藤は元々勤王(天皇支持)の考えが強く、佐幕派の新選組とは少々思想が違っていました。それでも孝明天皇が佐幕派で公武合体が進められていたので、孝明天皇が存命の頃は勤王と佐幕が矛盾していなかったという事になります。

しかしその孝明天皇が死去した事で、佐幕の考えが薄い伊藤には新選組にいる理由がなくなったという訳です。

近藤はこの御陵衛士の離脱は認めましたが、斎藤一を間者(スパイ)として潜り込ませてその動向を探りました。そして斎藤は、やがて伊藤の裏切りを突き止めるのです。

一応これも諸説ありではあるのですが、基本的に極秘で行われるのがスパイ活動ですから。

ちなみにこの斎藤一という人は不思議な人で、謎も多いんですけど創作物ではよく取り上げられています。謎だからこそ作者のイメージに落とし込みやすいんでしょうかね。

「るろうに剣心」では剣心と共闘したりで出番も多く、「壬生義士伝」では準主役級の扱いです。

この壬生義士伝は、史実の謎の部分をつなげて物語として成立させるのが本当に上手いです。「龍が如く維新」の坂本龍馬と斎藤一が同一人物などという、とんでも設定とは大違い。

あ、でも龍が如く維新は凄く面白いゲームですよ!!

御陵衛士 粛清

そしてそんな中、ついに新選組は幕府から旗本に取り立てられるのです。これは身分制度が確立されていたこの時代においては前例のない事です。

そして家康公の再来といわれた将軍慶喜のもと、ここから更なる新選組の活躍により幕府が盛り返していく…とはならず、慶喜は幕府が政権を朝廷に返上する事を決めるのです(慶応3年10月14日 大政奉還)。

その翌月、薩長と幕府の武力衝突が避けられたと、慶喜の決断を喜んだ坂本龍馬も近江屋で暗殺されました。

新選組も疑われましたがそんな中、新選組は伊東甲子太郎を初め御陵衛士を粛清する計画を立てます。

慶応3年(1,867年)11月18日、近藤は頼まれていた資金の用意が出来たと酒宴を開いて伊藤を招きました。

その帰り道、待ち伏せていた複数の新選組隊士が伊藤を斬り付け殺害。さらに伊藤の亡骸を油小路に放置して御陵衛士をおびき出します。

「御大将の亡骸をそのままにしてはおけない」と、新選組の罠と承知でやって来た御陵衛士を、待ち構えていた新選組隊士が斬り付けます。激しい乱戦となる中、永倉は試衛館時代からの仲間である藤堂平助を逃がそうとします。

それは新選組局長である近藤の願いでもありましたが、けっきょく藤堂はそういった事情を知らない隊士に斬られ殺害されてしまうのです。

こうして裏切り者を粛清した新選組でしたが、すでに幕府の存続は厳しい状態にありました。そして、新選組は最後の戦いへと向かう事になるのです…

本稿は試験勉強には役立たないので、学生の方は良かったら下記も参考に。

インターネット家庭教師Netty

終わりに

いかがでしたでしょうか?

新選組は隊士のほとんどが武家以外の出身で、中には博徒さえいたそうです。

そんな浪人の集まりで烏合の衆の新選組が、正式な武士、それも旗本として取り立てられるというのは本当に凄い事です。「時代に求められた」ともいえますけどね。

こんな動乱の時代ではなければ、いくら望んでも起こり得なかった事でしょう。

ちなみに武士による切腹というのは、武士としての名誉が守られるという意味合いもあるそうです。だから切腹を命じられるというのはまだマシで、切腹が許されない場合には斬首になるとの事。

戦国時代はよく討ち取られる前に自害する場合が多いけど、それもそういった理由からなんですかね。

やっぱり現代人には分からんわ~

コメント