幕末 黒船来航と幕府終焉の始まり

戦国~幕末

こっれっきり これっきり もう これっきりぃですか~♪(横須賀ストーリー!!)って感じで、

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いや、横須賀の浦賀沖に黒船が来たって事で…

嘉永6年(1,853年)、浦賀沖にペリー提督率いる4隻の軍艦が「開国して下さ~い」って感じでやって来ます。「黒船来航」で知られてますよね。この辺りから時代はいわゆる「幕末」となり、幕府の体制が崩壊していく事になります。

かなり高圧的な態度の来訪でしたが、幕府は将軍が病気という事を理由に面会を断ります。ペリーはアメリカ大統領の親書を渡すと

1年後に I will be back

と言い残し帰っていきました。

幕府からしたらもう「これっきり」でお願いしたい所でしたが…

黒船来航

ペリー来航の目的は日本に開港と通商を求めるというものでした。現在では日本の捕鯨を批判してますけど、当時のアメリカは太平洋で捕鯨を行っていました。

捕鯨とはクジラを捕まえる漁の事ですが、船の停泊所として日本の港を使えれば都合が良かった訳です。

この時の混乱を表して、狂歌という世の中を風刺した短歌が詠まれています。

「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も眠れず」

上喜撰というのは上質なお茶の事で、そのままの意味で捉えれば「上質なお茶はたった4杯飲んだだけで目が冴えて眠れなくなる」というような感じです。

しかしこれは狂歌なので裏の意味があります。

上喜撰は軍艦の蒸気船として、つまりこの歌は「平和な世だったから、たった4隻の蒸気船が来ただけで眠れないほどの大混乱」といった意味ですね。

艦隊を帰す為の口実に使ったのかもしれませんが、将軍が病気というのは事実でした。そして混乱の中、第12代将軍家慶は死去します。家慶には27人の子供がいましたが、20歳以上生きたのは家定ひとりなのだとか。その家定も病弱ではありましたが、家慶が亡くなった事で第13代将軍となりました。

黒船来航を受け、幕府は朝廷や諸大名に広く意見を求めます。意見を聞くのは民主的でいいのですが、これまでの幕府は独断で政策を決定しそれに従わせるという形でした。簡単に言うと独裁政治な訳です。

なので意見を求めるという事は良くても、逆に幕府の権威を失墜させる事にもなっていくのです。要は「幕府も大したことねーぜ!」などと思われてしまうんですね。

そしてこの頃から「尊王攘夷」という考えが広がります。これは簡単にいうと、日本はやっぱり天皇様だという「尊王」論と、外国など日本から排除しようという「攘夷」論が合わさったものです。

ちなみに同じ頃、ロシアの艦隊も通商を求めてやって来ていますが、こちらはちゃんと外国の窓口となっていた長崎へ来航。かつては択捉島に砲撃してきたロシアですが、この時は大変紳士的に交渉して帰ったとの事です。

翌年、嘉永7年初頭、やや前倒しで再びペリー提督率いる艦隊が、今度は6隻でやって来ます。その交渉も有無を言わせない圧力を感じさせるものでした。

これを受け幕府は下田と箱館(函館)の二か所を開港し停泊を許可する事で、いったん貿易については保留されました。この時に結ばれた条約を「日米和親条約」といいます。

そして脅威を感じた事で、ようやく欧米に対抗できるよう軍備の強化に着手していくのです。

日米修好通商条約

安政3年(1,856年)にはアメリカ総領事としてタウンゼント・ハリスが来日。下田の玉泉寺がアメリカ領事館となります。

ハリスは将軍家定と会見し、アメリカ大統領の親書を渡しました。

対応していた老中の堀田正義は、ハリスから聞いた世界の情勢に危機感を持ちます。この頃のヨーロッパは帝国主義が主流で、有色人種の国を白人国家が次々と植民地にしていました。清(中国)もアヘン戦争で負けてイギリスに香港を取られています。

現在の香港の情勢を見ると複雑ですけどね。

イギリスやフランスは東南アジアにもその手を広げています。ハリスは

「アメリカには日本侵略の意思はありません」

として、イギリスやフランスが日本に向く前にアメリカと通商条約を結ぶ事を求めました。そして堀田はアメリカと条約を結ぶ事を決めるのです。

しかし反対派も多く、それらを抑える為にも堀田は天皇の許可をもらう事とします。しかし時の孝明天皇は大変な異国嫌いで、堀田の申し出には強く反対し受け入れませんでした。

それにしても久しぶりに天皇の名前出て来た…

これを受け堀田は独断で調印しようとするも、幕府は事態の打開の為に井伊直弼を大老とします。

大老とは当然の事ながら老中より上の位になるので、これより決定権は井伊直弼が持つ事となりました。

井伊直弼はあくまでも天皇の意見に従う考えでしたが、ハリスからイギリスとフランスが日本に向かっているとの報告を受け、急ぎアメリカとの調印に応じる事にします。

しかしこれは日本に早く条約を結ばせる為のハリスのデマであった様子。

こうして安政5年(1,858年)「日米修好通商条約」が結ばれました。

安政の五ヶ国条約

これにより下田は閉鎖され、代わりに箱館、新潟、神奈川、兵庫、長崎で貿易が行われる事となります。ただまずかったのは治外法権や領事裁判権、関税自主権を日本が持たない事まで認めてしまった事です。

治外法権や領事裁判権を認めるというのは、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本では罪に問えず、アメリカの裁判によって裁かれるという事。納得のいかない判決が下される事は容易に想像できますよね。

関税自主権を持たないというのは、アメリカからの輸入品に税金をかける事が出来ないという事。

これでは幕府の財源にならないし、あまりに安く売られたらその品物を作る自国の産業は成り立たなくなって辞めてしまいますよね。そうなれば輸入に頼るしかなくなり、結果として自国の首を絞めるという事態も考えられるんですね。

そうならない為に関税をかけようにも、それが出来ないという訳です。

しかし幕府はそんな不平等な条約を、さらにイギリスとフランス、オランダとロシアとも結んでしまうのです。これを「安政の五か国条約」といいます。

当然これに尊王攘夷派は黙ってないのですが、同年に死去した13代将軍家定の後継ぎには、天皇を重んじる水戸藩が推す慶喜ではなく、井伊直弼が推す慶福が家茂に改名し第14代将軍となります。

そんな中、長州(山口県)の松下村塾では、吉田松陰により数々の優秀な人材が育っていました…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

確かにこの頃の国際情勢からすると、日本は危険な状況にあったのかもしれません。外国と戦争になっても勝てないのは明白。井伊直弼の行動により日本は救われたという見方も出来ますが、あまりに弱腰では国民に対しての示しがつきません。

それでいて国内には威光を発揮しようとするんですよね。やがて討幕派の動きも活発化していきます。

ちなみに、自分は浅田次郎さんの「壬生義士伝」を見てからから歴史にハマっていきました。

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