革靴を履いた侍 坂本龍馬の生涯とエピソード

戦国~幕末

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坂本龍馬といえば、言わずと知れた幕末の超有名人。この人を尊敬しているという方も多いですよね。ご存じのように大政奉還のすぐ後、龍馬は近江屋において殺害され、歴史の舞台から退場されました。

そこで坂本龍馬を中心に取り上げたいのですが、普通にやっても今更なので少々視点を変えて

「坂本龍馬と斎藤一は同一人物⁉」

という新説を紹介したいと思います!!

いやそれ「龍が如く維新」だから…

龍馬 少年時代

坂本龍馬といえば「日本で初めて新婚旅行をした人」「日本で初めて商社を作った人」などの逸話が有名ですよね。時代の先を行く人という印象があります。

そんな龍馬は天保6年(1,836年)11月15日、土佐の下級武士の家、五人兄弟の末っ子として産まれます。下級武士といっても実家の才谷屋は質屋などの商売をやっており、裕福な家庭で育ちます。

龍馬は物覚えも悪く出来の悪い子供だったそうですが、12歳の時に学友の一人と喧嘩になり、相手が刀で斬り付けてくるという事件が起こります。これは龍馬がかわしてその場は終わりましたが、抜刀した事が理由でその学友は退学になります。

しかし喧嘩両成敗という事で、龍馬も退学になってしまうのです。

これは相手が上士の家の子で、龍馬との身分の差が要因となったとの事です。武士の中でも階級のようなものがあって、特に土佐では「何かあれば上士が下士を斬り捨ててもお咎めなし」という程だったのだとか。

ここら辺の龍馬についての話は諸説ありなんですが、退学になった事は事実なようです。さらに母親を亡くすと3歳上の姉、乙女が龍馬の面倒を見ていく事になります。

この坂本乙女とはとてもその名前からは想像出来ない、身長五尺八寸(175㎝)体重三十寛(112㎏)という大柄な女性で、「坂本のお仁王様」と呼ばれていました。

また見た目にたがわぬ豪胆な性格で、その後の龍馬の人生にも大きく影響を与えたといわれています。

そして嘉永6年(1,853年)龍馬19歳の時、剣術修行と称して江戸へ向かうのです。

未知との遭遇

江戸に着いた龍馬は、北辰一刀流の千葉道場で剣術の稽古に汗を流します。その江戸遊学中に、めぐり合わせというのか歴史を揺るがす大きな出来事が起こる訳です。

黒船来航ですね。

これを目の当たりにした龍馬は強い衝撃を受けました。ただ、それでもこの頃はまだ

「異国じゃあ…、やる気ならおまんら許さんぜよ!」

ぐらいに思ってた事が、故郷の家族へ宛てた手紙からは伺えます。

翌年、土佐へ帰った龍馬は、海外の情勢について詳しいといわれる河田小龍という絵師のもとを訪れます。この河田小龍は、漂流して助けられその後アメリカで長らく過ごしたというジョン万次郎から話を聞き、それを書き記したという経験があったのです。

龍馬はそんな河田小龍から話を聞き、更なる外国への興味を大きくしていきます。

その後再び江戸へ出て剣術を学ぶと、この時に北辰一刀流の免許皆伝を受けたなど諸説ありますが、いずれにせよ龍馬が優れた剣術家だったというのは間違いなさそうですね。

土佐脱藩

文久元年(1,861年)龍馬の明友武市半平太が、下級武士の若者を集め「土佐勤王党」を結成。これは尊王攘夷を掲げたもので、龍馬や後に人斬りで有名になる岡田以蔵も参加していますが、公武合体を支持していた藩の方針とは対立する事となります。

その後しばらくして龍馬は脱藩する事になるのですが、この脱藩の理由も諸説ありなんですよね。けっこう重要な事ではあるのですが、じつはあやふやです。

「武市と考えが合わなくなったから」

「大きな志を持って」

「薩摩の尊王攘夷運動に参加する為」

などが説としてはありますが、全部合わせ持っていたとしてもべつに矛盾はないですね。

ただ脱藩した後も「腰抜けの幕府を倒すぜよ」という尊王攘夷の考えであったのは確かです。

そんな折、土佐では藩の要人である吉田東洋が土佐勤王党により暗殺されるなど、土佐勤王党の活動も激化していきます。

勝海舟との出会い

一方、龍馬は文久2年(1,862年)12月、仲間と幕府の要人である勝海舟を尋ねます。攘夷派の龍馬はこの時、勝海舟の出方次第では斬り捨ててしまおうと考えていました。しかし屋敷に招き入れられ、地球儀を前にして

「べらぼうめい、外国と対等に渡り合おうってもんさ、このままじゃ日本は外国の食い物にされちまうぜい」

と開国の必要性を諭されるのです。

これに男惚れした龍馬はその場で弟子入り。勝海舟と共に海軍の設立に尽力していきます。龍馬は仲の良かった姉の乙女によく手紙を書いていますが、この時の事は「日本第一の人物」と、勝海舟の事を称賛しています。その後も

「勝麟太郎(海舟)大先生の門人になり、かわいがられエヘン(自慢顔と思われます)」

「日本を今一度洗濯いたし申し候」

などの手紙を送っています。

元治元年(1,864年)5月、龍馬は勝海舟と共に神戸海軍燥錬所を発足させます。翌年には薩摩藩の出資を受け亀山社中という組織を結成。外国との商売を始めます。

そんな中、土佐では投獄されていた岡田以蔵が斬首、武市半平太は切腹となっています。

武市は自白しそうな以蔵を毒殺しようと試みますが失敗。以蔵は自白して斬首。武市は切腹となりました。この時の武市の切腹は「三文字割腹の法」といって三度腹をかっさばくという壮絶もので、これは今まで誰も成し得なかった事だそうです。

薩長同盟の成立

そういった事を知った龍馬は

「もうそんな事やっとる時代じゃないきに」

と、亀山社中を使って武器の購入を禁止されていた長州に武器を横流し。代わりに長州からは米を薩摩に送る事を提案します。こうして犬猿の仲といわれた二藩を近づけると、ついに慶応2年(1,866年)、龍馬の仲介により薩長同盟が結ばれるのでした。

この会談の際も両者が話を切り出せない中、龍馬が西郷さんに

「長州の気持ちを察してあげて欲しいぜよ」

と助言をしたのだとか。

そうして結ばれた薩長同盟ですが、龍馬はすでに武力倒幕など目的ではなく、次を見据えていたのです。

この数日後、寺田屋遭難といわれる事件が起こります。龍馬は京都の寺田屋で仲間と祝杯を挙げていましたが、知らない内に伏見奉行所の同心に寺田屋が包囲されてしまうのです。それに気づいた入浴中だった龍馬の妻お龍は、慌てて袷一枚を羽織って二階に上がり龍馬にその事を知らせます。

しかし同心たちに踏み込まれると、龍馬は仲間と共に応戦。なんとか脱出すると薩摩藩の救援により助かるのでした。

この時に活躍したのが高杉晋作から贈られた拳銃との事です。

そしてこの時に受けた傷を癒すために、薩摩の温泉などをお龍と巡った旅が日本初の新婚旅行という事です。

大政奉還

その後、亀山社中を海援隊と改名して程なくした頃、運航中のいろは丸が紀州藩の明光丸と衝突。いろは丸が沈没してしまうという事故が起こります。けっきょくこの事故の賠償金として紀州藩から土佐藩に7万両が支払われる事となりました。

ちなみに後の現在になって海底でいろは丸が発見、調査されましたが、龍馬が被害にあったと主張し見積もった銃火器などは発見されなかったとの事。当時は調べようにも海の底なので「被害額を多く請求するぜよ」と話を盛ったんでしょうね。

そしていろは丸の件の交渉を終えた龍馬は、長崎から兵庫へと向かう船の上で土佐藩の後藤象二郎に、これからの日本のあるべき姿についての考えを話しています。これは「船中八策」と呼ばれ、後に明治政府が出す五箇条の御誓文の基礎になっているといわれています。

この中のひとつ「政権を朝廷に返上する」という案が実現されて、慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還となったのです。

龍馬はこれで武力衝突が避けられた事や、新しい体制を築いていける事を喜び、さすが慶喜公とその決断を称えました。

そして龍馬が考える新体制の草案の中には「坂本龍馬」の名はなく、龍馬の目にはやりたかった貿易で外国と渡り合う未来が映っていたのです。

しかし薩長の目的はあくまでも武力倒幕で、その為の大義名分を求めているような緊張した情勢でした。

龍馬の最後 寺田屋事件

そんな大政奉還の一月後の11月15日、近江屋において龍馬は、突然押し入って来た数人の男たちに、一緒にいた中岡慎太郎と共に殺害されてしまうのです。享年33歳でした。

この龍馬暗殺の犯人についても諸説ありで、「何者かによって暗殺」とされる事も多いです。幕府側の者だけではなく、武力倒幕を目指す薩長の中にも龍馬を邪魔に思う者はいました。しかし今の所は自白があったとして、京都見回り組による犯行というのが有力ではありますね。

そして生前の龍馬の望みとは裏腹に、薩長と幕府の武力衝突となる戊辰戦争が始まるのです…

終わりに

いかがでしたか?

龍馬の魅力は人間的にも色々ありますが、龍馬の時代の先を行く考え方と行動力というのが日本を動かしたといえますよね。そしてもし龍馬が殺されていなかったら戊辰戦争や西南戦争もなかったかもしれないし、明治時代もまた、少々違ったものになっていたかもしれないですね。

ただ日本が植民地支配される可能性もあった中、龍馬亡き後も日本を守ろうとした人達の奮闘もまた、大きな功績なんですよね。

ちなみに龍馬の「龍」の字は「竜」と表記される事もありますが、これは時代に合わせただけでどちらが正しいという訳ではない様子。龍は今でもよく使われますけどね。

龍が如く維新ってゲーム面白かったな!!

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