戊辰戦争 鳥羽伏見の戦い そして近藤勇の最後

戦国~幕末

ようこそ当ブログへ

幕末の終わり…というのも妙な言い回しですが、慶応3年(1,867年)に大政が奉還された事で、260年余り続いた江戸時代は終了という見方も出来ます。ですが「幕末」という括りなら、やはり戊辰戦争の終結までだといえますね。

戊辰戦争の展開は単純なもので、新政府軍が京都から北上していき、敗走を繰り返した旧幕府軍は最終的に箱館で降伏しています。

しかしその中においては命と誇りをかけた男たちの、数々の人間ドラマが繰り広げられるのです…

戊辰戦争の始まり

大政奉還が上奏されましたが、王政復古の大号令により幕府と徳川の領地400万石も朝廷に返上するように要求されます。これに対し、慶喜はともかく家臣たちは激怒。慶喜はそんな家臣を抑えつつ自身の正当性を訴える為に大坂に入りました。

そんな中、江戸では薩摩藩士を名乗る浪士による狼藉が繰り返されます。江戸の警備に当たっていた荘内藩はこれに怒り、江戸の薩摩藩邸を焼き討ち。さらにそういった情報が大坂の幕府方に伝わると、慶喜も激高する家臣たちを抑える事が出来ず、旧幕府軍は薩摩藩の罪を訴える為に京都へ向け進軍します。

そして鳥羽で構える薩摩、伏見で構える長州と旧幕府軍が衝突。こうして慶応4年(1,868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まるのです。

この戦いは旧幕府軍約1万5,000人、薩長軍約5,000人と数の上では旧幕府が圧倒。さらには兵の志気も高かったのですが、薩長にはどんな兵器よりも強力な手段がありました。それは錦の御旗を掲げる事です。

じつは開戦の翌日には、すでに朝廷は薩長を官軍、旧幕府軍を朝敵としていたのです。つまり薩長軍と戦うという事は天皇様に逆らうという事。

一夜にして逆賊とされてしまった旧幕府軍の兵は

「手向かえぬ、帝には手向かえぬ…」

と狼狽し、撤退していく事となるのです。

しかしその時、一人の男が草むらから飛び出し

「一天万乗の天皇様に弓を引くつもりはござらねども、拙者、義の為に戦をせねばなりもうさん!!」

と叫び、鉄砲隊が構える薩長軍に単身突っ込んでいきます。それが新選組剣術師範吉村寛一郎だったのです。

いやそれ壬生義士伝…

徳川慶喜 逃走

立て直しを図りたい旧幕府軍でしたが、淀藩の淀城では門前払いに合い、腹いせに会津藩士らによる放火などが起こりました。新選組も負傷者や離脱者が出て分散し、古参の井上源三郎などはこの淀城から橋本方面へ向かう際の戦いで戦死しています。

ちなみにテレビドラマ版の壬生義士伝では、この井上源三郎役で作者の浅田次郎さんが少しだけ出演されています。

ただ実際には撤退しつつも、旧幕府軍の中には依然として徹底抗戦の意志を持つ兵も少なくありませんでしたが、総大将の徳川慶喜は

「最後の一兵になろうと決して退いてはならぬ」

と言い残し、自身は6日の夜の内に大坂城を脱出。船に乗り込み江戸へ引き返してしまうのです。

自軍の兵を見捨てる形になったので、この時の慶喜のとった行動は謎とされる事もあります。もっとも謎もなにもないような気もしますが、慶喜が有能な人物だとするなら確かに謎の行動ではありますね。

ただ、あくまでも幕府と薩摩の私戦としていた慶喜の思惑が外れ

「朝敵になるなんて聞いてないよ~」

って所だと思いますけどね。

いずれにしても、これら一連の流れにより降伏する藩も続出。

大阪城も新政府軍により押さえられる事になりました。

新選組局長 近藤勇

残った新選組の隊士たちは慶喜に遅れる事2日、榎本武揚らと共に富士山丸に乗り江戸へ向かいます。

一行が江戸に到着すると、慶喜は上野の寛永寺で謹慎、もはや戦線離脱。榎本武揚は新政府や旧幕府の方針に抵抗する姿勢を見せ、会津藩主の松平容保も会津城へ帰り戦闘の準備を進めます。新選組は「甲陽鎮撫隊」と改名し(させられ?)、甲府城を拠点とする為に甲州へ向かいました。

しかし甲州において新政府軍の板垣退助が率いる迅衝隊の前に敗走。江戸へ引き上げる事となります。江戸へ戻ると近藤との意見の違いから、永倉新八と原田左之助が離れていきます。残った近藤と土方らは会津で戦う為に新しく隊を編成。しかし会津へ向かう途中の流山に滞在中に、近藤は新政府軍により捕らえられてしまうのです。

この時、切腹しようとする近藤を土方が止め、投降するよう説得したといわれています。そして土方は近藤の助命を嘆願する為に江戸へと向かうのです。

近藤はこの時「大久保大和」という偽名を使っていて、近藤勇の顔を知らない新政府軍を騙していました。しかし新政府軍の中に高台寺党の生き残りがいて、新選組局長の近藤勇だとばれてしまうのです。

高台寺党とは伊藤甲子太郎が率いて新選組から離反し、後に新選組により粛清された組織です。その生き残りという事は当然、近藤の顔も知っているし恨んでいるという訳です。

江戸に向かった土方の嘆願も間に合わず

近藤勇 慶応4年(1,868年)4月25日 板橋刑場にて斬首

そしてその2か月後には、近藤の死を知らぬまま沖田総司も病死。

幕末の動乱の中、確かな足跡を残した新選組にも終わりの時が来るのです…

終わりに

いかがでしたか?

戊辰戦争が始まりましたが、その時点ではまだ旧幕府軍の力は健在でした。しかし勢いは薩長にあり、朝敵となると総大将の徳川慶喜は江戸へ撤退。すでに戦う気持ちはなくなっていました。

ちなみに徳川慶喜は隠居手当なる資金を基に趣味に没頭した平穏な余生を過ごし、76歳で天寿を全うするのでした。

神君家康公の再来か、う~む…

コメント