織田信長 天下統一への道

戦国~幕末

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足利義昭の上洛を手助けする事になった織田信奈。

…いや織田信長

室町幕府の再興を目指し天下布武を掲げます。これには幕府の力を自身の天下統一に利用しようとする思惑もありました。明智光秀を家臣に加え、さらなる戦いへと突き進んでいくのです…

第15代将軍の擁立

1,565年、三好氏らの謀反により将軍・足利義輝が殺害(永禄の変)されると、信長は逃げ延びた弟の足利義昭の上洛を助ける事になります。

一説によると明智光秀が従兄妹である濃姫(信長の正室)を頼って信長に話を通してもらったのだとか。

信長としても、幕府の再興に尽力する事で、将軍の力を利用出来ると考え協力する事にします。

ちなみに光秀は元々は濃姫の父親である斎藤道三に仕えていましたが、道三が討ち取られた後は美濃を追われ、この時は義昭に仕えていました。

1,568年に上洛を開始すると信長軍は、途中の抵抗勢力を次々と退け破竹の勢いで進んでいきます。そして京都に辿り着くと義昭を将軍に擁立。義栄の跡を継ぎ、第15代将軍・足利義昭が誕生しました。

信長は義昭から管領か副将軍の職まで打診されるもこれを断り、その代わりに「堺、草津、大津」を貰い我が道を進んでいく事となります。

年が明けてすぐに信長の本隊が美濃に帰ると、その隙を突いて斎藤や三好の残党に義昭の仮の御所が襲撃を受けます。

信長も即座に駆け付けますが、光秀の活躍もありこれを撃退。

二条御所を改築するとともに、義昭からの信頼も厚いものになっていきます。

改革と対立

堺は南蛮貿易で栄えていたので、献金と大量の鉄砲を仕入れる事に成功。また関所の廃止と楽市楽座によって城下町を発展させます。キリスト教の宣教師と交流を持ち布教活動も許可していますが、これは南蛮貿易を円滑にする為でもあると共に、じつは仏教勢力を牽制する為でもあったのです。

というのも、お寺は宗教観から崇められていてそれなりに金と権力を持っていたし、この頃は武装もしていました。ただ、そうやって力を持ちすぎると段々と秩序も乱れ、中には女だ酒だと俗念に塗れる者も少なくなかったのだとか。

もっとも信長からするとそんな事より、権力を持ち政治や商売に関与してるのが気に入らなかったので、そんな仏教を牽制する為にもキリスト教を利用したという訳です。

将軍の後押しと軍備を強化した信長は、天下統一に向け更なる勢力の拡大を目指します。しかし幕府の権力を誇示したい将軍は、それを利用するだけの信長と徐々に対立。

武田信玄や朝倉義景、更には比叡山延暦寺や石山本願寺を味方に付け、信長包囲網を築くのです。

戦いと窮地の連続

信長は1,570年、越前(福井)の朝倉義景を攻め金ケ崎城を落としますが、浅井長政の裏切りに合い敗走。信長と長政は同盟を結んでいて、信長は妹のお市の方を長政に嫁がせています。なので信長からするとまさかの裏切りだった訳です。

しかし浅井と朝倉は良好な付き合いがあったので、長政からすると織田と朝倉どちらに付くか、苦渋の決断でもありました。

すでにうつけ者ではなくなっていた信長には、生涯傾奇者を通した前田慶次のような

負け戦こそ面白い

という余裕は無く、猿(秀吉)と光秀が殿(しんがり)を務めなんとか逃げ切ります。しかし、すでに

我らこれより修羅に入る

と修羅道を突き進んでいた信長は、すかさず姉川の戦いにおいてリベンジを果たすのです。

ちょっと花の慶次の話は置いとこうかって感じで、この頃には「杉谷善住坊」という人物に信長は暗殺を受けています。これはもちろん未遂に終わっていますが、実行犯は必死の捜索により捕らえられ処刑されました。

その方法は首から下を生き埋めにして、毎日数センチずつ竹製のノコギリで首を斬っていくというもの。

「楽に死ねると思うなよ…?」

ガクブル…

ちなみにこの暗殺未遂事件は、黒幕も暗殺者の素性もよく分かってはいません。でも戦国コレクションのネタじゃなくて、本当にあった出来事なんですよね。

ていうか、戦国コレクションが分からんか…

姉川の戦いでは勝利した信長でしたが、その後は一揆なども起こり包囲網の前に大ピンチに陥ります。

しかし翌年1,571年には

仏と会えば仏を斬り!!

とばかりに比叡山を焼き討ちます。

つか花の慶次大好きか!!

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これに怒った武田信玄から送られた書状には「第六天魔王信長」と返しましたが、さらに激怒した信玄は進軍を開始し攻め込んできます。

武田軍のあまりの強さに三河の徳川家康はチビりながら敗走する事に…。

絶体絶命の信長は将軍義昭との和睦を図りますが、野田城を落とされた所で信玄の病気が悪化。武田軍は引き上げていくのです。

室町幕府の最後と信長の攻勢

これに救われた信長は勢いを取り戻し、1,573年には槇島城に立て籠る将軍義昭を追放。これにより235年に渡り続いた室町幕府と室町時代が終わる事となるのです。

さらに同年、越前の一乗谷城を攻め朝倉義景を自害に追い込むと、浅井長政の小谷城も攻略。長政は、お市の方と3人の娘に信長のもとへ行くよう説得すると、「もはやこれまで」とばかりに自害。こうして信長は朝倉義景、浅井親子を滅ぼしました。

その後、武田信玄の跡を継いだ息子の勝頼が三河に進軍して来ますが、これを織田徳川連合軍で迎え撃ったのが長篠の戦いです。武田軍の騎馬隊は強力でしたが、組織された鉄砲隊によりこれを撃退。その後も次々と抵抗勢力を討ち倒して支配地域を広げていくと、やがて朝廷からも天下人と認められる事になるのです。

1,576年には琵琶湖のほとりに安土城の築城を開始。1,579年に完成しましたが、その豪華さは世界に誇るほどだったのだとか。

ちなみに見学料を取って信長自身が案内したともいわれてますね。

1,580年には本願寺との戦いにも終止符を打つと、信長に抵抗する勢力もあとわずかとなり、やがて日本の統一も目前となっていました。

しかし忠誠を誓っていたはずの1人の家臣が、信長に対し恨みを抱えていたようで…

終わりに

いかがでしたか?

まさに常在戦場の信長。これほど戦い続けた武将もいないでしょうけど、一方では新しいものを柔軟に取り入れ、大胆な改革も行っています。当然の事ながらただ残虐なだけの人ではなかったんですね。

ちなみに朝倉と浅井を倒した後の宴の席で、朝倉義景と長井親子の頭蓋骨に金箔をあしらった杯を披露したそうです。

やっぱ信長さん、こ、こわいッス…

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