戦国時代の夜明け 北條早雲と毛利元就の下克上

戦国~幕末

戦国お,と,め,よ,咲き誇れ~♪でお馴染み戦国時代!!

それはそこまで馴染んでね~よって感じで、

ようこそ当ブログへ

日本史の中でも戦国と幕末はよくTVでも取り上げられますよね。マニアの方も多いです。いろんな出来事が起こるし、面白いエピソードもたくさんありますしね。終わりが見えなくなりそうですが時代の流れを追いながら、これから数記事をかけて取り上げていきたいと思います。

戦国は大変ですよ。史実と創作が入り乱れてるし、お決まりの諸説ありも本当に多いですしね。途中でやたら名前も変わるし…

最初に言い訳きた!!

戦国時代の範囲

戦国時代とは俗にそう言われているだけなので、この範囲の解釈もまたいくつかあるんですね。一般的なのは1,467年の応仁の乱から豊臣秀吉が天下人になった1,590年辺りまでという感じです。

「応仁の乱が終わってもまだ幕府の体裁は保たれていた」

「その後も関ヶ原の戦いがある」

とかで人によって多少解釈が異なりますが、それほど大した意味はないです。正解もありません。いったん治まってまた始まるというのが柔軟な考えではないでしょうかね。

ただ応仁の乱の後、1,493年に「明応の政変」という、またもや幕府のお家騒動が起こります。こういう事も含め徐々に衰退していき、各地の大名も「ならばわしが」って感じで名を挙げていくんですね。

個人的にはですが、そこからが本当の戦国時代の始まりかなとは思います。

ちなみに応仁の乱の続きみたいなものなので、明応の政変をざっくり語っておきます。

お家騒動再び 明応の政変

少々残念な将軍足利義政さんは将軍の座を実子である義尚に譲りますが、その義尚は若くして死去。その後、一時的に将軍に復帰して跡取りを立てる事になりました。

義政さんと細川勝元の息子の政元は、次の将軍に「清澄」を推しますが、義政さんの妻の日野富子がまたもや出しゃばって、今度は「義稙」をプッシュしてきます。義稙は応仁の乱では対立していた義視の息子。しかし母親が富子の妹なので、富子からすると甥っ子にあたるんですね。

つまりなんとしても日野家の血筋の者を将軍にしたいという訳です。

なんかややこしいですが、まあ要するに「将軍家のお家騒動」という事だけ分かってもらったらOKです。

ここはけっきょく富子が意見を通し義稙が将軍になるのですが、義視、義稙の親子と富子は次第に合わなくなって

「やっぱりあんたがいい」

と富子はけっきょく義政さんのもとに帰ります。それはけっこうな事だけどすでに将軍は義稙。この対立に畠山兄弟の家督争いも合わさって…、ていうか畠山兄弟いつまでやってんの⁉って感じで、これは最終的には義稙が降伏するような形で終わりました。

そして1,495年、清澄が第11代将軍となりましたが、ただこういう事を繰り返すと…って感じですよね。

時代の先駆け 北条早雲

ほぼ同じ頃、駿河(静岡辺り)の大名今川氏でも家督争いが起こります。「伊勢新九郎」(後の北条早雲)という家臣の妹の子が後継者ではあったのですが、まだ幼かったので元服(大人になる)するまでは代行者を立てる事で話がまとまります。

しかし、後継者が元服しても代行者の小鹿範満がその座を譲ろうとしないため、新九郎は武力行使に出て小鹿を討ち倒しました。

こうして自分の甥が大名となり、新九郎も力をつけていきます。

1,491年、堀越公方といわれていた足利政和が死去。するとこちらでも跡継ぎを巡り争いが起こりましたが、これを予測していた新九郎はこれにより守りが手薄になった伊豆を攻めます。こうして伊豆を手中に収めた新九郎はこの地の大名に。そしてさらなる野心を抱きます。

伊豆の踊子

こんな感じで、この伊勢新九郎(北条早雲)という人は、戦国の世でいう下克上の先駆けのような人なんですね。ただ、武骨で豪傑な人かというとそんなことは無く、その土地に暮らす人達があっての国だと。そういう人達が活躍していく時代が来るのだという考えの持ち主だったようです。

せっかくなのでここからは早雲でいきます(特に意味はなし)。そんな早雲は今度は小田原城を攻める計画を立て、代替わりしたばかりの城主に

「鹿狩りをしていたら裏の箱根山に鹿が逃げ込んでしまったので、勢子を領地内にいれていいか?」

といった内容の書状を送ります。勢子とは、狩りの時に獲物を追いかけて誘導する人の事。了解を得た早雲は、勢子に化けた兵を送り込み、夜襲を仕掛け小田原城を攻め落とします。その後さらに相模も手に入れたのち、1,519年に88歳で亡くなりました。長生きしたな!

そして早雲から教えを受けた息子や孫達もさらに勢力を拡大していき、北条氏は関東のほとんどを支配するまでになり、これは1,590年に豊臣秀吉に征伐されるまで続くのでした。

三本の矢 説教好きの毛利元就

関東で早雲が亡くなった頃、中国地方の大名「大内義興」は領地内で武田元繁の反乱を受けていました。その鎮圧を任されたのが、まだ小国の領主に過ぎなかった「毛利元就(もうりもとなり)」です。三本の矢で有名ですよね。

元就は自分の息子三人を呼び、矢を一本渡して「折ってみろ」といいます。息子が簡単に折ると、今度は三本の矢を渡してまた折るようにいうと今度は折れない。

「兄弟三人がそうやって力を合わせれば毛利は安泰だよ」

と教えたといわれ、これはどうやら創作のようですが現在でも教訓みたいに伝えられていますね。

そして武田元繁討伐を成功させた元就は郡山城の城主になりました。

そんな中、代替わりした大内家で家臣の陶晴賢(すえはるかた)が謀反を起こし主君を討ちました。陶晴賢としては力を付けつつある元就を手ごまにしておきたく、元就もそんな陶晴賢に付いて戦力を増強させていきます。

しかし徐々に関係が悪化していくと、元就は頃合いと見て陶晴賢を討ち取る事を決意。まずは居城の郡山城とは別に、戦いに備えて厳島(瀬戸内海に浮かぶ島)に宮尾城を築城。この地域に陶軍を誘い込んで一気に叩いてしまおうという計画を立てました。

さらに元就は陶側が送り込んだスパイをそれと見抜き、逆にそのスパイを利用。これは陶の家臣である江良房栄も毛利に通じているというデマを流し、それを信じたスパイが陶に報告。江良房栄を敵内部で粛清させてしまおうというもの。

元就の計画は成功し、敵軍の重要人物を難なく削り取りました。ただこの辺りの話は諸説ありです。

それから陶軍が確実に厳島に攻めてくるよう仕向ける為に、今度は元就が陶側にスパイを送り込みます。毛利を裏切って来たと陶に接触させ

「陶様が厳島を攻めれば毛利軍は必ず厳島に集結します」

「守りの薄くなった郡山城を我々の手勢で落として見せます」

と吹き込ませます。この辺もまた諸説あり。

そして1,555年、厳島の戦いが起こるのです。

毛利軍は嵐の日を選んで攻撃を開始。二手に分かれて陶軍を挟み撃ちにします。毛利軍は綿密な作戦と地の利を生かし、乱戦の中で陶軍を追い込んでいき

「もはやこれまで」

陶晴賢を自害に追い込み討ちとりました。

さらに元就はその後、大内家の跡を継いだ大内義長をも攻めたて自害に追い込み、大内家の領地も次々と手中に収めました。

こうやって陶晴賢に付くと見せかけ裏切り、大内の為に尽くすと思わせ主君を討つという、毛利元就は戦国のお手本みたいな人なんですね。ただ領地の人々には屈託なく接し、家臣に対する気遣いも出来る人だったようです。

そして元就が中国地方で勢力を誇っていた頃、東海地方では美濃のマムシと恐れられた「斎藤道三」が下克上を成し遂げるのです…

終わりに

いかがでしたか?

北条早雲、毛利元就の下克上。こうして群雄割拠の戦国時代が始まっていくんですが、戦国を象徴する下克上という言葉。これは家臣が主君を討ってその座を奪うとか、小国の領主が領土を広げて大大名になっていくという印象があります。

なので特に毛利元就はこれぞ下克上というような人ですよね。

他にも基本は長男が家督を継ぐので、家督を継ぐ立場になかった三男や四男が家督争いに勝利するなんて言うのも下克上です。織田信長なんかがそうですよね。

ちなみにちょっと気になったのが、一本の矢が簡単に折れたなら三本ぐらいはいけるのでは…。息子たちはたぶん途中で元就が言わんとする事を察して、(ここは折れない振りをせねば…)って思って忖度してくれたんじゃないかな。

自分ならたぶん折って元就の反応を楽しむな!

自害に追い込まれる~

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