日露戦争の原因 清の義和団事件と臥薪嘗胆の日本

明治~現代

日露戦争とは簡単にいうと日本とロシアの戦争です…いやいくらなんでも簡単すぎるわって感じで

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日清戦争で大勝した日本は、下関条約では清に屈辱的な条件を要求します。朝鮮半島の独立を認めさせ、さらには当時の国家予算の約3倍にあたる賠償金、また台湾や遼東半島といった領土の一部を獲得しました。

しかしロシアがフランスとドイツを巻き込んだ三国干渉により、遼東半島に関しては清に返さざるを得なくなります。アジアの日本が台頭してくるのは白人国家としては面白くないし、何しろロシアとしては遼東半島が欲しかったのです。

このことは遺恨を生み、日本国内では打倒ロシアの気運が高まっていきました…

親露政権成立 大韓帝国

日清戦争開戦の直前、日本は朝鮮に親日政権を樹立させています。それにより政権を追われた国王の妃である閔妃(びんひ)は、日清戦争終結後、今度はロシアの手を借りてクーデターを起こします。

1895年10月、これに日本軍や朝鮮の反対勢力が対抗し、その戦いに巻き込まれ閔妃は殺害されました。これを乙未事変(いつびじへん)といいますが、首謀者や実行犯は諸説ありです。

いずれにしても閔妃は最初は親日派でしたが、政権を追われるたびに清やロシアに助けを求め、その度に親清派、親ロシア派と変わっていき、最後は日本によって倒される形となりました。

とんだコウモリ野郎(まあ女だけど)に振り回された朝鮮の方々は堪らなかったろうけど、朝鮮人自体そういう性質があるのは歴史が証明しています。

もちろん個人を見ればまた違う人もたくさんいます。

一旦は政権を取り戻した大院君でしたが、今度は国王の高宗がロシア公使館に助けを求めると、やがて大院君は失脚します。そして今度は高宗が政権を奪取し、親露政権を成立させました。

1897年10月、朝鮮は「大韓帝国」と国号を改め、高宗が初代皇帝となります。これにより朝鮮の独立を手助けした日本の思惑は少々外れてしまうのでした。

日清戦争敗戦後の清

一方、日本に敗れた清は厳しい状態となっていきます。先進諸国は清を「眠れる獅子」と内心警戒していましたが、日清戦争の結果を受けると我先にと進出。清としても日本に対する賠償金の支払いに苦慮し、領土を貸し出す事となりました。

こうして清はその領土の多くで外国の介入を許し、半植民地のような状態となってしまうのです。

そんな中、日本にとって大きかったのは、ロシアが遼東半島を押さえた事です。

遼東半島は下関条約で日本が清から割譲させたのを、三国干渉により仕方なく清に返した土地です。そうした経緯からこれは、日本のロシア憎しの感情を逆なでする事となりました。

ロシアというのは昔からこういう漁夫の利や協定破りが常套手段で、これも歴史が証明していますよね。

もちろん個人を見ればまた違う人もたくさんいます。

ん、デジャブ…?

義和団事件とは

そんな折の1900年6月、北京で「義和団事件」と呼ばれる清の民衆による反乱が勃発。反乱を起こした義和団は宗教的な団体で、「扶清滅洋」という外敵を倒し清を救うというような主義を掲げました。

幕末の日本でも尊王攘夷運動がありましたが、簡単にいうとその主張と似たような意味合いがあります。

この義和団の反乱はあの西太后も支持したといいます。ライバルの両手足を切断させて、甕(かめ)の中で飼ったという話は有名ですよね。

ガクブル…

しかしながらそれは完全なる創作だそうです。

そしてその西太后により列強諸国への宣戦布告がなされます。対してこれに出兵したのはイギリス(イギリス領インド含む)やフランス、ロシア、ドイツ、オーストリア、イタリア、アメリカ、そして日本の8ヵ国。義和団は総勢20万人ともいわれましたが、さすがにこの8ヵ国連合軍により鎮圧されました。

この義和団事件で最も活躍したのは日本軍といわれ、さらに各国で略奪や暴行などが横行する中、日本軍は厳しく監督され、そうした狼藉を働く兵はほとんどいなかったそうです。そうした事からも日本軍は「極東の憲兵」と呼ばれ評価されました。

義和団事件が終結すると、清は列強諸国と北京議定書を締結。賠償金の支払いや治外法権を認めるなどの要求を飲む事になりました。

ロシアの動き

ロシアはこの義和団事件のどさくさの中、他国を出し抜き満州に出兵して占領していました。

いかにもロシアがやりそうな手口ですよね。そして戦争の結果だと言って正当化してくる訳です。

ただこの時は日本だけではなくイギリスやアメリカも抗議した事もあって、ロシアは軍を引き上げる事を約束しました。しかしロシアが約束を守るはずはなく、それどころかさらなる軍の増強を図りました。

当時イギリスは世界最強と呼ばれ、さらに「栄光ある孤立」として立場を確立していましたが、ロシアの南下政策は脅威に感じていました。

そして日本はそんなイギリスと明治35年(1902年)1月、日英同盟を締結。これは簡単にいうと互いにどこか一ヶ国との戦いの時は静観し、二ヵ国以上との戦いになれば参戦し協力するというもの。しかしこの同盟締結は十分にロシアを警戒させました。

日本国内では戦争は回避するべきという意見もありましたが、三国干渉以来、打倒ロシアの為に「臥薪嘗胆」を掲げていた国民の多くは主戦派でした。それでも日本はいくつかの妥協案を提示してロシアと交渉します。

しかしロシアがそれに興味を示すことはありませんでした。

そして緊張感が漂う中、いよいよ日露戦争へと突入していくのです…

本稿は試験勉強に役立たないので、学生の方は良ければ以下を参考に

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終わりに

いかがでしたでしょうか?

もちろんロシアが日本に侵攻してくると決まった訳ではないにしても、朝鮮が親露政権になった事は日本の国防においては脅威となりました。

また三国干渉から遼東半島を巡る経緯。さらにはロシアの不当な満州占領などが原因となり、日露戦争が起こる事となるのです。

しかし朝鮮はほっとけば迷惑をかけて、関われば逆恨みをしてくるというね…

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