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江戸時代に入り100年も経つと、大きな戦もなく町民の暮らしも徐々に安定していきます。そんな中では色々な文芸作品も生れました。
昭和の懐かしい時代劇は、わりとこの安定した時期のものが多いんですよね。水戸黄門や大岡越前、遠山の金さんや銭形平次(この人は架空の人物)もそうです。
今回取り上げるのは、第8代将軍徳川吉宗。時代劇の暴れん坊将軍やスロットの機種でも有名ですね。しかし知られているのは創作のお話。史実としてはどの辺が暴れん坊だったのでしょうか…
てぇへんだ、てぇへんだ!
吉宗で10万負けた!!
御三家から将軍へ
嫌われ将軍綱吉は亡くなりましたが、綱吉には息子がいませんでした。僧正から聞いた迷信の話が本当なら、生類憐みの令を作って動物を大事にしたのに息子が出来なかったという事になりますね。
そこで次の将軍には3代将軍家光の三男の長男(つまり孫)綱豊が家宣と改名して第6代将軍となります。48歳での就任でしたが、就任わずか3年で亡くなってしまうのです。息子の家継が跡を継いで第7代将軍となりますが、この時わずか4歳。側近が主導しながら政治を行いますが就任わずか4年、わずか8歳で亡くなってしまいます。
わずか、多いな…
そこで御三家の中で家康の血が一番濃いとされる紀州(現在の和歌山県)から跡取りが出される事となり、徳川吉宗が第8代将軍となります。
諸説ありですが白馬を駆りながら颯爽と登場したとの事。
いやそれは100%テレビドラマだわ!!
ちなみにこの時、家康が死去してちょうど100年となります。
紀州藩での吉宗
そんな吉宗は貞享元年(1,684年)、紀州藩主徳川光貞の四男として生まれます。
しかしこの時点で光貞が高齢だった為、家老の加納政直に預けられ5歳まで育てられます。父親が高齢だと子供が健康に育たないという迷信があったとの事で、吉宗はいったん捨てられそれを加納政直が拾うという形で取り繕ったのだとか。
なんの儀式?
加納家ではおむつという名の乳母が吉宗に付いたとの事で、おむつにオムツを替えられながら育てられたのだとか。
まあ、これは言いたいじゃないスか…
ちなみに、オムツは「襁褓(むつき)」と呼ばれ江戸時代から使われてます。
いやそこ重要⁉
その後は紀州藩主の跡を継いだ兄が次々に亡くなると、宝永2年(1,705年)に紀州藩第5代藩主となり、この頃から吉宗を名乗ります。そして享保元年(1,716年)、第8代将軍に就任するのです。
享保の改革 大岡越前
この頃の幕府は管理も甘く財政も苦しくなっていた中、吉宗が将軍に就任してから行った政治は「享保の改革」と呼ばれています。まずは自身も含め武士や町人にも贅沢を禁止する倹約令が出され、公事方御定書という裁判の際の基準となる法令も作られました。
享保2年(1,717年)には時代劇の「大岡越前」で知られる、大岡忠助が南町奉行に抜擢されています。大岡裁きも有名ですよね。奉行所というのは江戸の治安を守り、町奉行とは奉行所のトップで、現在でいう所の裁判長や警視総監も兼ねていました。
ちなみに同心の「御用だ、御用だ」といいながらの捕り物は、時代劇の醍醐味となっております。
火事と喧嘩は江戸の華などと言われますが、それほど江戸の町は火事が多かったんですね。そこで幕府は町人による町火消を組織し、「いろは四七組」と呼ばれ活躍しました。
町火消は火事の時に出動しますが、その際には纏というのを掲げました。江戸東京博物館にその纏を再現したものがあったので持ち上げてみたんですが、想像以上に重かったんですよね。
大体30㎏ぐらいあったんじゃないかと思います。いったい何の為に…
またこの頃、歌舞伎や浄瑠璃の演目「曾根崎心中」の影響で、江戸の町でも心中が流行っていました。これを受け享保8年(1,723年)「心中処罰令」なる法が発令され、厳しく取り締まられています。
心中で死んだ者の葬式禁止。片方だけ生き残ったらその者は斬首。両方生き残った場合は裸でさらし者にされたのだとか。
ちなみに大岡忠助は、1日に数10件の大岡裁きの影響から痔が悪化してしまったのだといいます。実際は長時間の座り仕事だったそうですね。
享保の改革 米将軍
一方で倹約などを強いる代わりに、目安箱を設置して庶民の意見を聞き取ったりもしています。直訴が禁じられていた時代に、何を書いても処罰されなかったとの事。
現在ではサイトやSNSで国民の意見を集めたりしている政治家もいますね。
ただ娯楽から文化が発展したりもするので、厳しい倹約生活の中では文化は停滞する事となります。
諸大名には石高1万石につき100俵を幕府に納めさせ、代わりに参勤交代で江戸に滞在する期間を半年にします。
これを上米の令といって、幕府に18万7000石ほどの米が収められました。
そうして借金を返済した幕府は、米の値段を安定させて生活必需品の値段を下げるべく努力もしています。こうした事から吉宗は「米将軍」ともいわれていますね。
吉宗は身長が180㎝ぐらいあったそうで、当時の日本人の平均身長は160㎝に満たない程度といわれている中では大柄ですよね。見た目がさほど良くない女性を好んでいたとの説もあります。
側近たちと女性の好みの話なんかもしてたんですかね。
「殿それはないですわ~」なんて言われたり。
そして延享2年(1,745年)に将軍職を長男の家重に譲り、自身は大御所として影響力を持ち続けました。
終わりに
いかがでしたでしょうか?
吉宗は財政を立て直す為に厳しい締め付けもしましたが、目安箱を設置して民衆の意見を聞くなどの試みも行っています。第9代将軍となった家重は、言葉がうまく話せないという障害がありました。吉宗は実権を持ちそんな息子に助力しますが、寛延4年(1,751年)に亡くなっています。
…ていうか吉宗のどの辺が暴れん坊将軍なんだろ?むしろ主演の松平健さんが暴れん坊とか⁉
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