【天下泰平】老中による政治 田沼意次と松平定信

戦国~幕末

老中とは簡単にいうと幕府内の位の高い役職で、役職としては将軍の下に大老があってその下が老中となります…って感じで

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天下泰平の江戸時代において確かな足跡を残した徳川吉宗も、延享2年(1,745年)には将軍職を息子に譲り、寛延4年(1,751年)に亡くなりました。

吉宗の跡を継いで第9代将軍となった家重は、言葉がうまく話せないという障害がありました。

他にも頻繁に尿意を催すので、家重の為に何か所も便所が設置されたとの事です。それでも漏らしてしまう場合もあり、周りからは「小便公方」などと陰で揶揄されたのだとか。

しかし知的障害という訳ではなく、吉宗亡き後もしばらくは将軍職を続け、旗本だった田沼意次を大名に取り立てています。

この頃は将軍に代わり、実質的には老中による政治が行われていきます。今回はそんな老中、田沼意次と松平定信を取り上げます。

つか前置きなげーな…

田沼意次 田沼時代

家重は1,760年に息子の家治に将軍職を譲ると、その約1年後に亡くなりました。

家重の跡を継いで第10代将軍となった家治は、自身では積極的に政治を行わず趣味の将棋に没頭。その腕前は7段との事です。

段々と将軍というのは権威の旗印のような存在となり、代わりというか実質的に政治を行ったのは老中の松平武元や側近の田沼意次でした。田沼が実権を握っていた時期は「田沼時代」と呼ばれ、商業に重きを置いた時代でした。

老中格となった田沼は、幕府の財政を安定させる為にそれぞれの業種に株仲間を作らせます。株仲間とは今でいう組合のようなもので、田沼の目的は商売を守る代わりに冥加金を治めさせるというもの。冥加金とは、ここでは上納金ですね。

ただこういったものに拍車がかかり、田沼に賄賂を渡す者も多くなっていきます。

やがて田沼も賄賂をもらう事に、罪悪感どころか喜びすら感じるようになっていきました。

時代劇でよくある「おぬしも悪よのう」って感じですよね。

長く権力の座に座っていると腐敗していくという、政治家の典型のようです。

しかし田沼、腐敗するの早かった…

天明の大飢饉

ところで、この田沼時代には数々の飢饉が起こりました。特に天明2年(1,782年)から天明3年(1,783年)にかけて起こった飢饉は「天明の大飢饉」と呼ばれ、全国的に拡大していきその影響は天明8年(1,788年)まで続いたと言われています。

南部藩で約30万、仙台藩で約6万4,000人もの死者を出したといわれていますが、ただ役人は一人も死ななかったとの事です。

う~む…?

さらに浅間山の大噴火などもあり、火山灰により日光が遮られ凶作を招きました。

生類憐みの令の綱吉の時も富士山の噴火などの自然災害が多発しましたが、この時代はこういった天災は指導者の徳が低いからだと、わりと本気で信じられていたようです。

いや、そうか!だから民主党が与党だった時に東日本大震災が起きたのか。あれは人災だったなんて…

またこういった不測の事態に対する対応の悪さというのも当然ながらありました。なので綱吉の評価も余計に低いものになっていたし、今回もまた田沼に対する民衆からの支持が下がっていくのです。

マジで民主党政権の頃を思えば想像できる話です。

そして印旛沼と手賀沼の干拓にも失敗した田沼はいよいよ追い詰められ、天明6年(1,786年)には老中を失脚させられました。

この度重なる天災で、年貢に苦しんだ農民により各地で一揆が起こります。米の値段も下がらない中、江戸の町民による商店などの破壊行為も横行。その波は日本中に広がっていきました。

ちなみにこの田沼意次は発明家で知られる平賀源内と親交がありました。エレキテルで有名ですよね。平賀源内は他にも学者など数々の顔を持ち、「土用の丑の日」というキャッチフレーズも、うなぎ屋に頼まれて平賀源内が定着させたのだとか。

松平定信 寛政の改革

政治的には影の薄かった将棋名人の家治将軍は亡くなりましたが、息子が先に死んでしまって家治には跡取りがいませんでした。家康の頃に将軍家の跡取りが途絶えた時の為に御三家が設けられ、その御三家から吉宗が8代将軍となっていますが、その吉宗によりさらに「田安、清水、一橋」の御三卿が設けられています。

そして今回はその御三卿の一橋家から、天明7年(1,787年)に徳川家斉が第11代将軍に就任しました。

この家斉により白河藩主松平定信が将軍補佐役に任命され、田沼時代を悪政としていた江戸の民からも期待されていました。その松平定信のもとで行われた政治は「寛政の改革」と呼ばれていて、まず物価をつり上げて不当に利益を得ているとして株仲間を解散させていきます。

この頃は士農工商の身分制度があたとしても、実質的に力を持っていたのは金がある商人でした。

世の中銭や!!

幕府の旗本や御家人は、給料として与えられた米をお金に換えて生活したり、商人に借金をして生活している者もいました。そういった事を商売としていたのが札差(ふださし)というのですが、幕府はその札差に対する5年より前の借金を無効としました。

現在でいったら、5年前に買った国債が突然紙くず同然になるような感じですかね。しかし、これにより札差の貸し渋りを招いてしまうのです。

う~む、なんか元寇の後の鎌倉幕府も似たような事をやっていましたね。

他にも浮浪者を自立させたりと世の中を良くする改革を行っていくのですが、一方で倹約などの庶民に対する締め付けは厳しく、何かとお堅い定信は次第に嫌われていくのです。

この時代の銭湯は混浴だったんですが、それも男女別に分けられましたからね。それは嫌われるでしょ。

エロオヤジに…

社会風刺 狂歌

この頃は「狂歌」という世の中を風刺した短歌が詠まれています。現在みたく表立って政権を批判など出来ない時代に、そうやって庶民は憂さ晴らしをしていたようです。

「白河の 清きに 魚も住みかねて もとの濁りの 田沼 恋しき」

これは一見すると「魚はあまり綺麗すぎる水の中では餌もなく生きられない」という意味にとれますが、これは狂歌なので裏の意味があります。

要は「白河」というのは白川藩主出身の定信を表し、濁った水の「田沼」を田沼時代にあてています。

つまり世の中を正す定信の堅苦しい政治より、問題は多かったが自由だった田沼時代が懐かしい、という事を風刺している訳です。

それにしても、田沼恋しき…

そして将軍補佐役になってから6年、寛政5年(1,793年)に定信は老中を失脚しました。

本稿は試験勉強に役立たないので、学生の方は良ければ以下も参考に

インターネット家庭教師Netty

終わりに

いかがでしたでしょうか?

この辺りから将軍は権威の旗印のような存在になり、実際の政治は老中と呼ばれる家臣が行うようになっていきます。簡単に言うと田沼意次は問題が多いけどまあ自由で、松平定信は安定してても締め付けが厳しいといった民衆の評価でした。

しかしまた田沼時代のようになれば、程なくして定信のような政治が待望されたりするのでしょう。そう考えると政治に対する庶民の批判は、いつの時代もあまり変わらないなぁなんて思いますよね。

ちなみにいつの時代も二度と求められる事のなかった綱吉さん…

21世紀になりようやくほんの少しだけ見直されています!!

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