斜陽を迎える幕府 大塩平八郎の乱と異国船打払令

戦国~幕末

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松平定信の失脚により「寛政の改革」は終わります。初めは期待されて迎えられた正信でしたが、風紀を正すための厳しい締め付けにより最後は嫌われてしまいました。後任に松平信明が任命され、他の老中たちと共に政策を引き継いでいきます。

肝心の将軍様は何をしてたかというと、第11代将軍家斉には40人以上の側室と50人以上の子供がいたといわれているので…

伊能忠敬 日本地図

この頃ロシアの使節ラクスマンが、保護した漂流民の帰国と通商を求める書状を渡しに根室にやって来ます。しかし当時の日本が国交を持っていたのは、明(中国)とオランダと朝鮮。それもかなり制限されていました。

しかし幕府は要求を断る事で、ロシアと戦争になるのを懸念し協議します。

とりあえず外国との窓口は長崎なのでそちらに行って欲しい事を伝え、その間に北方の防備を固めていく事になりました。

幕府による蝦夷(北海道)の調査は進められ、1,800年には伊能忠敬による蝦夷の測量が始まります。この忠敬は下総国(千葉県)の商人でしたが、51歳で上京。天文学を学び始め、56歳で測量の旅に出ています。

これは日本全国17年にも渡り行われ、現在とさほど変わらない日本地図が作成されました。

人間いくつになっても何かを成す事が出来るもんなんですね。

幕府の弱腰外交

1,804年、忘れた頃に再びロシアの船がやって来ます。いわれた通りに長崎に到着し通商を求めて来るのです。この時も幕府内では会議が開かれ、ロシアと戦争になる事を懸念し貿易に応じようという意見と、あくまでも現状を維持し断ろうという意見に分かれましたが、最終的にはロシアの要求を断り帰ってもらう事に決まりました。

これに怒ったロシアは3年後の1,807年に択捉島を砲撃してきます。しかし幕府は報復したり交戦するようなことは行わず、ひたすらに蝦夷の防備を固めていきました。

天下泰平の世が長く続き、すでに政治の改革と改悪を繰り返すだけになってましたからね。幕府はもう戦い方を忘れてしまったのかしれませんね。一応、間宮林蔵の率いる調査団により樺太の調査が行われ、樺太は南北に細長い島だと分かったとの事ですが、そうじゃないだろって感じですよね。

そんな折、長崎オランダ商館に医者で学者のシーボルトが赴任してきます。このシーボルトは塾を開き蘭学を伝え、日本の近代化に貢献しました。しかし悪気はなかったようですが1,828年、持ち出し禁止だった日本の地図などをオランダに持ち帰ろうとしたとして日本から追放されてしまうのです。これをシーボルト事件といいます。

大塩平八郎の乱

1,833年には東北地方を中心とした飢饉が起こります。数年に及んだこの飢饉は「天保の大飢饉」と呼ばれ、江戸四大飢饉としても知られています。この飢饉により大坂でも少なくない餓死者が出ました。

この状況を憂いた大塩平八郎は、役所の蔵の米を町民に分け与えてもらうよう大坂東町奉行所に掛け合います。この平八郎は元大坂町奉行の与力で、職を辞した後は塾で学問を教えていました。

与力とは簡単にいうと奉行所の管理職です。

しかし町奉行の跡部良弼により、江戸に送る米だとして断られてしまうのです。そこで平八郎は私財をなげうって町民を救済しようとしますが、それも中止するよう命令が出されました。そして1,837年、平八郎により奉行所討ち入りが決行され、これを「大塩平八郎の乱」といいます。

この計画は密告により事前に情報が奉行所に洩れてしまい、乱は程なくして鎮圧され、大塩平八郎も潜伏先の小屋に火をつけ自害します。しかしこの動きは日本各地に広がっていき、一揆や取り壊しなどの破壊行為が横行していく事になるのです。

揺らぐ幕府の支配

幕府は1,825年に異国船打払令を出していますが、1,837年には日本人の漂流者を届けに来たアメリカのモリソン号まで砲撃してしまうのです。これをモリソン号事件といって、日本人の蘭学者から反発が起こりました。高野長英や渡辺崋山により幕府に意見を進言する「夢物語」や「墳機論」などの書物が書かれます。

しかしこれが幕府を批判するものとして捕らえられてしまい、この事件は蛮社の獄といわれています。

存在感なくて忘れる所だったけど、1,837年に家斉は息子に将軍職を譲り、自身は大御所として実権を握っています。これにより次男の家慶が第12代将軍となっています。

ちなみに家斉は政治的には影が薄いものの、将軍の在職期間は50年に及び最長となっています。子作りに余念がなく大奥に入り浸り贅沢な生活をしていましたが、1,841年に人知れず息を引き取りました。

大御所の家斉が死去すると、老中の水野忠邦により財政の立て直しが図られます。忠邦による一連の政策は「天保の改革」と呼ばれ、「享保の改革」「寛政の改革」と並び江戸三大改革に数えられています。しかし、厳しい締め付けの為に庶民や諸大名からも反発を招き、忠邦は老中を失脚。わずか3年で天保の改革も終わりました。

幕府がいくらいい頃の政治を行っても、時計の針は戻せないという事ですね。

そして1,853年、ペリー提督率いるアメリカの軍艦4隻が浦賀沖に現れます。ここからいよいよ幕末の、激動の時代に入っていく事になるのです…

終わりに

いかがでしたか?

すでに外国と戦う備えもなく庶民の事も顧みない幕府。その権力も少しずつ崩れていくのが分かりますよね。

ちなみに天保の改革の頃に「遠山の金さん」でお馴染み遠山景元が町奉行として活躍しています。

あの入れ墨チラつかせて絡んでくる半グレか…

いや違うわ!!

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