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信長により室町幕府が実質的に終わり、時代は室町時代から安土桃山時代となります。地味と言われる室町時代ですが、後半は激動でした。
そんな時代も、あ~ったねと…♪
いつか話せる日が来ますよね!(名曲!)
その信長も自身の野望に利用する為とはいえ、足利義昭の上洛を手助けし幕府の再興に協力しています。このような話を信長に持ち掛けたのが明智光秀と言われていて、その際には従兄妹で信長の正室の濃姫に話を通してもらったのだとか。
今回はそんな明智光秀と織田信長の最後、かの有名な「本能寺の変」までを追っていきます。
パワハラはダメですよ!
謎多き半生
明智光秀の生まれはハッキリしない事も多く、美濃の斎藤道三に仕えていたのですが、それ以前の事はよく分かっていません。
でもそれはミステリアスというのではなく、身分もさほど高くなく歴史の表舞台に出てきたのが遅かったからという理由です。
信長に仕えるようになってようやく後世の人が明智光秀を認識出来るようになったのですが、なんでもその頃にはすでに40代、または50代との説もあります。研究によりそれ以前の事も色々と見えては来ましたが、そんな訳でお決まりの諸説ありも非常に多めとなっております。
主君である斎藤道三が長良川の戦いで討ち死にした後は、光秀も美濃を追われ放浪する事となります。
その頃の事もよく分かってはいないのですが、一説によると中国地方で下克上を果たした毛利元就を訪ね、仕官を申し出ているとも言われています。
ただ元就は光秀の優秀さと内にある本質を見抜き、これを断ったのだといいます。本能寺の変ありきのいかにも創作っぽい話ですけどね。
その後は越前の朝倉義景に仕えるようになったのですが、この辺りからは徐々に資料にも見られるようになっていきます。
愛妻家の光秀
光秀には煕子(ひろこ)という妻がいたのですが、大変仲睦まじかった事で知られています。
なんでも煕子は嫁入り前、天然痘を患い顔に跡が残ってしまうのですが、このままでは嫁に出せないと思った父親の案で、なんと瓜二つだった妹を煕子として嫁がせる事にするのです。
う~む…
どれだけ似てたのかはともかく、当然の事ながら光秀にはばれてしまう訳ですが
「私が心に決めたのは煕子です」
と、光秀は病気の跡など一切気にせず結婚するのです。
また宴の用意にかかる費用を捻出するのに困った光秀の為に、煕子が自分の髪を切って売ったという話があります。そのエピソードはのちに松尾芭蕉が俳句にしています。
この頃は一夫多妻制が普通でしたが、光秀は側室も置かなかったそうです。ですが煕子が亡くなると件の妹を後妻に迎えたのはご愛敬。そんなに似てたのかな。
でもやっぱり側室はもたなかったのだとか。
優秀な家臣 光秀の活躍
1,565年、永禄の変で将軍・足利義輝が殺害されると、逃げ延びた弟の義昭は各地の大名に上洛の協力を仰ぐ事に。義昭が朝倉義景を頼った時に光秀と出会う事になります。光秀は余裕のなかった義景を見限り、信長に協力の話を持ち掛ける事を提案。従兄妹で信長の正室の濃姫を通じて信長との話をまとめる事に成功します。
この頃から義昭に仕えつつ信長にも仕えるようになり1,568年、上洛を果たした義昭は第15代将軍となります。
その後は、金ヶ崎の戦いで信長軍が敗走する際に秀吉と共に殿を務めたり、比叡山の焼き討ちでも実行部隊として活躍し武功を上げます。
しかしさすがに皆殺しの指示には従えず、少ない被害で済むよう取り計らったともいわれています。
やがて信長と対立した義昭の軍勢とも戦い、信長からの評価も高まっていきます。また光秀もその事を大変有難がり、信長を尊敬し忠誠を誓っています。
ところで信長の家臣に対する態度は時に厳しいものがあり、光秀も理不尽な扱いを受ける事もありました。一方で信長は、家臣にあだ名を付けて楽しんだりもしていたようです。
ちなみに秀吉はサル、またはハゲネズミ。光秀はキンカン。こんなものにも諸説ありなんですが、どうやらハゲ頭という意味との事です。
こういうのは現代ではパワハラですよね。
「このハゲー」と怒鳴りながらかは分かりませんが、光秀は家臣たちの前で足蹴にされたりもしたそうです。光秀に対する信長の評価は高いんですが、なぜか軽く扱われていたようです。
もっともこれは家臣の気を引き締める為の出しにされたのかもしれないし、光秀は仕事は出来ても秀吉や森蘭丸のように、要領よく立ち回るのは苦手だったのかもしれません。
しかし出来る男、光秀の仕事は増えていきます。
1,575年、天下統一に重要な丹波国の攻略を任されますが、これは非常に難しい上、さらには波多野秀治の裏切りに合い戦いは長期化していきます。その間には最愛の妻、煕子を病で亡くし、自身も無理が祟って倒れています。
それでも戦線に復帰すると、抵抗勢力と戦いながら八上城を包囲し兵糧攻めを開始。1,579年に八上城を落城すると、続いて黒井城を落とし、ついに丹波国の平定を成し遂げます。また信長も光秀の働きを絶賛しました。
敵は本能寺にあり
その後1,582年、中国で毛利を攻めていた秀吉から援軍の要請を受けると、信長は徳川家康の接待役だった光秀を、その任を解き秀吉の援軍に向かわせます。約13,000人の軍を率いて出陣した光秀はそのまま中国に向かう事も出来ましたが、その道中
「敵は本能寺にあり」
と号令をかけ(もうそういう事にしといて!)京都の本能寺を襲撃するのです。
その日は信長自身も毛利征伐に向かう準備の為、100名程度のお付きや側近たちと共に本能寺に宿泊していました。
「何事じゃ⁉」
信長は家臣から明智光秀の謀反であるとの報告を受けると、「是非もなし」つまり「仕方がない」として、逃げるよう促す家臣を制したと言われています。
光秀の謀反を想定していた訳ではないと思うので、この仕方がないは
「光秀ほどの男に囲まれたのならもう逃げる事は敵わない」
という意味でしょう。
信長は女性たちを逃がすと家臣たちに出来るだけ持ちこたえるように告げ、奥に入り火を放ちます。敵に討ち取られる事を嫌い、「人間五十年~」の敦盛を舞いながら焼けていったのです…
焼け跡から信長の死体は発見されなかったそうですが、どれが信長か分からなかったという事でしょう。
うつけ者から始まり戦い続けた信長の人生。また戦いの中で49年の生涯に幕を閉じるのでした。
しかし信長の意志を継ぐべく、一人の家臣が野望を燃やします…
終わりに
いかがでしたでしょうか?
優秀な家臣である明智光秀は、信長の元で数々の功績を上げました。その光秀が謀反を働いた理由ですが、ハッキリとした理由は分かっていません。怨恨節から朝廷黒幕説まで、仮説と創作も入り乱れて色々あるので、ぜひお気に入りのエピソードを探したり自分なりに想像してみて下さい。
ちなみに自分が思うにいくつかの理由が複合しての事だとは思いますが、日頃からの理不尽な扱いに不満を募らせていった事や、信長が独裁なので四国の長曾我部元親との交渉で面子を潰されたというのはあると思います。
ただまあ、年下の上司に飲めない酒を強要され、ハゲ頭と罵られ、理不尽な理由で人前で足蹴にされたら、ねぇ…
是非もなし!!
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