大化の改新を分かりやすく説明すると、645年6月14日、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって起こしたクーデター(乙巳の変)及び、そこから始まった政治改革です…
って感じで
ようこそ当サイトへ
なぜかほとんどの日本人が記憶している年号といえば、645年。自分のような偏差値最底辺でも大化の改新と学校で習った事は、何でか分かりませんが覚えています。
しかしながら、近年では645年はあくまでも乙巳の変の年号。大化の改新とはその後に行われた政治改革という事です…って
だったら先に言えや!!
歴史調べてると本当にこうゆうのが多いんですよね。まあ、そこが面白くもあるんですが…。
乙巳の変も含んでの大化の改新という説も…
って、もういいよ!!
まあそんなことは気にせず、オレ竜で行ってみましょう。
うそ
中大兄皇子と中臣鎌足
大化の改新は知っていても、その内容はというとどうでしょうか。
「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我氏を打ち倒しました」
ぐらいはご存じの方も多いと思います。
東大に合格するだけだったらそれで十分でしょうが…
ん?
もう少しだけ詳しく見てみましょう。
当時、朝廷内での蘇我氏の権力は大王(おおきみと読むよ、天皇の事と思って下さい)に迫るものでした。蘇我氏が渡来人かは分かりませんが、少なくとも渡来人との関わりが深かったのは確かなようです。
ちなみに渡来人とは、大陸から来た進んだ文明の体現者の事です。
そういった事も力の背景にあり、蘇我氏は天皇や貴族中心の時代に政治の中枢に強引に入ったり、かの有名な聖徳太子の息子を討ったり(自害に追い込む)もしています。
ちなみにこの聖徳太子も色々と説がありますが、取りあえずそれはおいといて、そんな蘇我氏の横暴には反感を持つ者も多くなり、その中に中臣鎌足という人がいました。この中臣鎌足が時の皇極天皇の息子である中大兄皇子と結託して、蘇我氏を討ち倒す計画を立てる事になるのです。
蘇我氏が次期天皇に推してたのが古人大兄皇子という人だったので、もう一人の有力候補だった中大兄皇子としても蘇我氏に対抗する理由があったという訳です。
一説には中大兄皇子が蹴鞠で遊んでいた時に、失敗して転がった鞠を中臣鎌足が拾った事が二人の出会いとも言われています。
きっかけが欲しくて柱の陰から見てたのかな?良かったね、鎌足ちゃん。それか、皇子が失敗した振りして鎌足の方へ転がしたとか。
足元の技術すげ~
いざ決行!打倒 蘇我入鹿
この頃、近く朝廷内で三国の調という儀式が行われます。三国の調とは当時の朝鮮半島の高句麗、百済、新羅の使者が貢ぎ物を持って来日するので、それを迎える儀式の事です。その儀式に蘇我蝦夷(そがのえみし)の息子、入鹿(いるか)が出席するので、儀式の最中を狙って不意打ちで殺害する計画を立てました。
ちなみ三国の調に関しては、蘇我入鹿をおびき出す罠としてそのような儀式をでっち上げたという説もあります。
645年6月12日
儀式が始まり、協力者の石川麻呂が表文を読み上げてる最中に決行する手はずでしたが、仲間がビビって動けなくなってしまいました。なかなか動きが無いので石川麻呂も困って震えてしまい(心中お察しします)不審に思った入鹿に指摘されてしまいます。
「天皇様の前で緊張して…」
というような言い訳をした頃、ようやくしびれを切らした中大兄皇子自身が飛び出し入鹿を斬りつけ、仲間もそれに続き蘇我入鹿を討ち取りました。
この時、入鹿は儀式に出席するという事で、剣を外していて丸腰だったと言われています。江戸時代に描かれた絵によると、首を斬り落とすような凄惨さだったようです。
その後、蘇我蝦夷も自害に追い込み殺害。この時、中大兄皇子20歳、中臣鎌足32歳、ついに蘇我氏を討ち倒すのでした。
日本最初の元号 大化
皇極天皇が退位されたら次は中大兄皇子が天皇に就くのかと思いきや、その時は別の皇子にその座を譲っています。
この事はけっこうな謎とされていて、蘇我氏を討ったのは単に自分が天皇になりたいがための謀反と思われたくなかったからだとか、天皇より皇太子という自由な立場で活動したかったからだとか、いくつかの説があります。
ただ、いずれにしてもその後「天智天皇」として即位する事になるんですけどね。
ちなみに中臣鎌足もこの功績から、軍事や外交の責任者のような立場となり、後に藤原という姓を名乗る事となります。
そして、この頃に日本初の元号である大化や、これより少し後に国号の日本という呼称も生まれたと言われています。これは日本人ならけっこう知っておきたい所ですよね。
それから天皇中心の中央集権化や公地公民制度やら色々と始まり、それこそが本来の大化の改新の根幹部分なんだとは思います。
しかしながら、そういったお勉強的な話はこのサイトではやりません!!なぜならつまらないから…
何というダメな奴。
必要とあらば他のサイトでお調べください。
謎多き聖徳太子
最後に色々と偉業があるとされる聖徳太子なんですが、中国の皇帝が激怒したという「日出ずるところの天子、書を、日没するところの天子に致す」の手紙でも知られています。
この件も諸説ありですし、さすがに飛鳥時代の人なのでそもそも分からない所も多いです。最近では厩戸皇子とか厩戸王などと言われていますね。
それ自体どっちだよって話なんですが、聖徳太子ってじつは実在しなかったんじゃないか説まで出てきて、個人的にはもう興ざめなんですっ飛ばしました。
だって自分が子供の頃の1万円札と5千円札の人ですよ?滅多にお目にかかれない人ですよ?じつはいなかったって何?って話ですよ。
ですYO!!
あ、ですよ。さん、パクりました。
要はざっくりと説明すると、ですよ。の毎日は…♪じゃなくて、厩戸王(厩戸皇子)という人は確かに存在したし、その方が聖徳太子という事でもあるんです。ただ、じゃあその聖徳太子が行ったとされている事はすべてこの方の偉業や功績なのかというと、そこに疑問符が付くという訳です。
そこまで一人でやってないよね?
聖徳太子っていうほどじゃなくない?
なら聖徳太子なんていなかったんじゃん?って話ですね。
あ~い、とぅいまて~ん。
諸説ありめんどくせぇ~
本稿は試験勉強に役立たないので、学生の方は良ければ以下も参考に
インターネット家庭教師Netty終わりに
いかがでしたでしょうか?
多くの人が認識している大化の改新とは、じつは乙巳の変という飛鳥時代のクーデター。蘇我氏を討ち倒して天皇中心の政治に戻そうというものでした。大化の改新とは簡単にいうとその後の政治改革ですが、乙巳の変もそれに含むという考えもあるという事です。
なので一般的に大化の改新として知られている乙巳の変も、大化の改新という事で間違いではないという解釈でいいようです。
ちなみに自分は一万円札の聖徳太子とも福沢諭吉とも縁はなかったですが、次の渋沢栄一さんとは仲良くしたいものですよ!!
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