諸行無常 源平合戦 時代は貴族から武士へ

古代~室町

源平合戦とは、1,180年から始まった治承・寿永の乱をわかりやすく表現した言葉です。ただ厳密には源氏と平氏の大合戦という訳ではなく、源氏についた平氏も、平氏についた源氏もいました…って感じで

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藤原氏の影響力を弱める為の院政でしたが、上皇やさらに上皇が出家した法皇、もちろん天皇もいるので、まとまりが悪くなります。そんな中、崇徳上皇と後白河天皇の対立が決定的なものとなりました。この天皇と上皇の対立に武士を巻き込んで、平安最後の大きな合戦が始まるのです。

院政の始まり 白河上皇

藤原氏の血をほとんど引かない後三条天皇でしたが、院政を始める前に崩御。1,086年、白河上皇の時代に院政は始まります。

この人は女性関係が大変盛んな人で、周りの女性と次々に関係を結び、一説には養女に迎えた璋子とも関係を持ったのだとか。とんだ暴れん棒ですね。

しかも男色家(同性愛者)でもあったそうなので、今でいうところのバイセクシャルです。自分用の警備隊も持っていたそうなんですが、それもお気に入りのイケメンを集めていたのかもしれませんね。

そんな性に関してはやりたい放題の白河上皇ですが、さらに名言?みたいなのがあって、簡単に説明すると

「賀茂河の水と賽の目と僧兵(お坊さん戦士)だけはどうにも出来ない」

みたいな感じです。一見すると嘆きのようですが、逆にいうと

「川の水みたいな自然とサイコロの運と僧兵以外はどうとでもなる」

という事。暴れん棒の天狗野郎ですね。

ていうか僧兵すげ~。

この性獣の孫が鳥羽天皇(後に上皇)で、その息子が崇徳天皇(後に上皇)です。

崇徳天皇の母親はさっき出た白河上皇の養女の藤原璋子なんですが、白河上皇と璋子は男女の関係にあったとの事なので、崇徳天皇の実父は鳥羽天皇ではなく白河上皇なのでは?という説がありますね。

う~む…

まるでそれを裏付けるように、鳥羽天皇は崇徳天皇を冷遇します。そのせいで、崇徳天皇は上皇になっても院政が行えない立場でした。ようやく鳥羽上皇が崩御されたので、時の後白河天皇と対立。そうして起こったのが1,156年、保元の乱です。

天皇VS上皇 保元の乱

もちろん天皇と上皇が殴り合う訳ではなく、それぞれ手勢に武士を引き入れていきます。崇徳上皇が藤原頼長を引き入れれば、後白河天皇はその兄の忠通を。上皇が平忠正を引き入れれば、天皇はその親戚の清盛。さらに源為頼を引き入れれば、その息子の義朝(似たような名前ばかりだな)。

といった具合に競っていくのですが、実際に衝突した戦いは天皇側の勝利となりました。これにより崇徳上皇は讃岐に島流しとなります。

いや島だけども!四国の人怒って来るよ?

じつはこの崇徳上皇、将門に続き三大怨霊の一人なんですね。天神様になった菅原道真も含め、これで三大怨霊コンプリートです。なんでも讃岐に送られた後、謝罪の意を込めた写本を朝廷に送ったんだけど、それが送り返された事に激怒。舌を噛み切った血で

「この国の大魔王になって皇が民となり民が皇となる世にしてやる」

みたいな事を書き残し、爪や髪も伸ばしながら朽ちていったのだとか。

ただ、百人一首にあるこの人の歌は、結ばれない恋人同士の永遠の愛を歌った、とても優しいものでした。南無…

一方、勝利した後白河天皇は息子に天皇の座を譲り上皇となります。平氏と源氏、どちらも勝利に貢献した訳ですが、優遇されたのは平氏の方でした。

当然の事ながら納得のいかないのは、上皇側についた父親を打ち首にまでした源義朝。この義朝の反発と、天皇上皇の側近同士の対立に藤原氏も加わって1,160年、平治の乱が起こります。

けれどこれに勝利したのは平清盛。ここから有名な

「平家にあらずんばひとにあらず」

の言葉通りの栄華を極めていくのです。

平家の繁栄

義朝は殺害されるのですが、その息子の源頼朝は伊豆へ流罪により死を免れます。この頼朝は後に征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く大物。そんな先の事などもちろん知らない清盛は、継母に当たる池禅尼の頼みで手心を加えるのです。

なんでも頼朝が死んだ息子に似てたのだとか。ただ清盛からしたら

「そんなの知らねぇ」

って感じですが、断食までして抗議されたので仕方なかったとの事です。

ちなみに牛若丸で有名な義経はまだ生まれたばかりで、母親の常盤御前が抱いて逃げていました。その常磐も、母が捕まったと聞いて出頭。母の助命と、さらに

「子供達が殺されるのを見たくないから自分を先に殺して欲しい」

と訴えたそうです。

清盛はそんな常盤が美しかった事もあり、自分のもとに来る事を条件に子供達の命を助けます。まあ、惚れちゃうよね。

そうして義経は鞍馬寺に預けられました。

祇園精舎の金の声 諸行無常の響きあり

じつは平清盛というのは中々の人格者でした。平家にあらずんば…も、本当は天狗発言じゃないし、そもそも清盛が言ったんじゃないですしね。おごる平家も、むしろ清盛の周りの人達の事なんですね。平家物語の冒頭ってなぜか覚えてますよね。

盛者必衰の理を…とか格好いいんですよ。

ちなみに平家というのは平氏の本家というような意味で、主に貴族になった清盛の一族を指します。そんな平家も朝廷内で権力を持ちすぎたのか、次第に疎まれていきます。

この頃には法皇になっていた後白河法皇と清盛との対立が表面化、平家の力を排除しようと動きます。息子の以仁王の策は失敗に終わりましたが平氏追討の令は各地の武士に届き、平治の乱の敗北でひっそりと暮らすしかなかった源氏も燃え立ちます。

こうして1,180年、源平合戦で知られる治承・寿永の乱が始まるのです。

じつはこの戦い「源氏と平氏の大激突」というのとは少々違うのです。単純に関東と関西の戦いともいえませんが、関東寄りの平氏は源氏の側に付いたりもしていますし、平氏に付いた源氏もいました。

ただ源平合戦の呼び方が良いので、べつに否定するつもりはまったく無いです。豆知識ぐらいのものですね。

伊豆に幽閉されていた頼朝は、この地を治めていた北条時政の娘、政子と結婚。北条は平氏の流れを汲む地方の豪族です。こうして頼朝は北条氏を味方に付け、合戦を繰り返しながら関東をまとめていきます。

そんな折、清盛が熱病で死亡。頼朝の従兄弟である義仲が都を制圧します。ただ、その後の傍若無人な振る舞いによって嫌われてしまい、頭角を現していた義経(牛若丸)の手により宇治川で敗北。その後、近江国で討ち死にしました。

義経が率いた軍勢はその後も活躍し1,185年、壇ノ浦で勝利。これにより、源氏と平氏の戦いは源氏の勝利によって幕を閉じるのです。

終わりに

いかがでしたでしょうか?

朝廷内の権力争いに武士が登用され、一度は平氏が繫栄を謳歌します。しかし権力を持ちすぎた平氏は疎まれ、やがて起こった源平合戦で源氏が勝利しました。

この勝利によって頼朝は初の幕府を開く事になりますが、勝利に貢献した義経は頼朝と対立。その後、東北の地で自害したそうです。

しかし、一発変換出来ない名前の奴はダメだな!苦労したのよ~

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