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美しい海と美味しい料理で人気の沖縄県。沖縄民謡も有名で、その人気は「魅力度ランキング」なるものでも常にトップを争うほど。基地問題や首里城の消失などでも話題になりました。
そんな沖縄県は紛れもなく日本なんですが、正式に日本に加わったのは1,879年と、わりと最近です。それまでは琉球王国として一応、日本に属しているというような感じでした。それだけに日本とはまた違った、独特な雰囲気があります。
琉球王国が沖縄県になるまでを見ていくさ~
琉球王国の成立
この地域も御多分に漏れず、古代はやはり各地で集落が生まれては統廃合を繰り返し、やがていくつかの大きな勢力が生まれます。
そして1,429年、尚巴志により統一され「琉球王国」が成立したと思われます。そこからを第一尚氏王統とし、その7代目の尚徳の頃には東アジアとの交易で利益を上げていました。
40年後の1,469年、内間金丸(尚円王)のクーデターにより強引に王位を継承。第二尚氏王統が成立します。2代目の尚真王の時代に現在の沖縄諸島を制圧しました。
薩摩藩との関り
時は進み1,588年、薩摩の島津義久から琉球王に書状が送られます。その内容は
「秀吉公が関白に就任したから祝うでごわす」
「なんなら臣従して日本に服属するでごわす」
というものでした。
この頃の日本は豊臣秀吉が関白に就任し、九州征伐で薩摩も制圧。島津も豊臣に臣従していました。秀吉は明(中国)への侵攻を考えていたので、そういった事への協力も琉球王に要請していくのです。
琉球王国は朝貢はするも朝鮮に兵は出さず、時の琉球王、尚永は秀吉を警戒。
朝鮮に明の援軍が来た事を聞いて、いざとなれば琉球王国にも明の援軍が来る事を期待します。
しかしこの時は琉球に対する軍事侵攻はなく、明から援軍が来る事もありませんでした。
薩摩藩との戦い
そんな折の1,602年、徳川家康の時代、東北の伊達政宗の領内に琉球の船が漂着します。家康はその琉球の者たちを丁重に扱うように指示。家康は琉球王国に、途絶えていた明との国交の復活に一役買ってもらおうと考えていました。
しかし秀吉の件があって以降、日本に警戒心を持っていた琉球からの返礼は無し。
「そん態度はありもはん」
と、薩摩から繰り返し家康への返礼を要求しましたが、琉球はそれに応じませんでした。
ついに薩摩の島津氏は琉球の態度を無礼とし、家康からの許可を得て「琉球征伐」を実行するのです。
1,609年、薩摩は約3,000人の軍を編成し、奄美大島から攻めていきます。
戦国時代でも有数の強力な戦力を誇った薩摩軍。琉球は島民の抵抗などで応戦しますが、時に善戦はするものの薩摩軍により制圧されていきます。薩摩軍は着々と南下していき、やがて本島に上陸。そして琉球王、尚寧は
「めんそ~れ~」
とはいかないまでも、和議に応じる事を申し出て戦いは終結しました。
薩摩は奄美諸島の割譲を求めながらも琉球王国は残し、貿易を管轄する事で利益を得ていく事となりました。
ちなみにこの戦いでも琉球王国に援軍を出さなかった明は、1,644年に終わる事となります。
琉球処分
その後は薩摩の監視下に置かれながらも平和な琉球王国でしたが、日本では幕末の激動の時代が過ぎ、明治政府によって様々な政治改革が行われていきます。
そして1,871年、廃藩置県により実質的に藩がなくなり、代わりに府と県が置かれる事となります。
そんな中、1,872年に明治政府により暫定的に琉球藩が設置されます。藩主となった琉球王の尚泰は清(明の次の王朝)に朝貢。琉球王国は清と日本の両国に属すという立場を主張します。
琉球王国の帰属問題が解決しない中、日本は1,871年に起こった、台湾に漂着した宮古島の住民が原住民に殺害されたという事件を持ち出し、台湾に出兵する事を決定。1,874年5月に実行されます。
台湾は清に属していたので、この戦いの終結の為に清と交渉を開始。日本は清からの賠償金を獲得し、さらに琉球王国が日本に帰属する事を認めさせるのです。
しかし尚泰はそれ以降も日本と清の両国に属する事を求めます。そこで1,879年、明治政府は約400名余りの軍と警察を派遣。首里城を押さえると、尚泰を東京に連行します。そして沖縄県が置かれ、ここに琉球王国は終わりを告げるのでした…
終わりに
いかがでしたでしょうか?
簡単にいうとこの琉球藩辺りからの流れを「琉球処分」といいます。国内外問わず人気の観光地の沖縄も、こういった歴史があって現在は日本という訳です。しかし琉球王国は無くなりましたが琉球文化は残り、それが現在人気という事ですよね。
なんというか、今夜はグルクンの唐揚げと泡盛で一杯やりたいな…
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