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薩摩の西郷隆盛や大久保利通と並び、維新の三傑に数えられる木戸孝允こと桂小五郎。いやむしろ桂小五郎こと木戸孝允…。しかし桂家に養子に入る前は和田小五郎。貫治や準一朗などとも呼ばれ、通り名は「逃げの小五郎」。
名を変え姿を変え、逃げに逃げて逃げまくった生涯…
いや長州の実力者です!!
桂小五郎 誕生
慶応2年(1,866年)、坂本龍馬の仲介にて薩摩代表の西郷さんに対し、桂小五郎が長州の代表を務め薩長同盟が成立しました。
その西郷さんが反乱を起こした明治10年(1,877年)の西南戦争の最中、木戸孝允は病死します。かつての同志が明治政府と戦う中、その行く末を案じながらその人生を終えました。
そんな桂小五郎は天保4年(1,833年)6月26日、長州藩の和田家に生まれます。後に桂家の養子となり嘉永元年(1,848年)に元服(成人になる)し、この時から桂小五郎を名乗ったとの事です。
ちなみに本稿では、幕末までは「小五郎」で明治から「木戸」とします。ややこし~
尊王攘夷派へ
小五郎は熱心に剣術の鍛錬を行い、嘉永5年(1,852年)に剣術修行として江戸へ旅立ちます。
江戸で神道無念流の免許を受けるほどの達人となった小五郎ですが、めぐり合わせというのか歴史を揺るがす大事件が起こります。
嘉永7年(1,853年)、黒船来航ですね。ペリーは翌年にもやって来て、幕府により開国となっていくのです。
ちなみに坂本龍馬も剣術修行で江戸に来ている時、このペリー艦隊を目にしています。
異国の脅威を感じた小五郎は兵学や砲術を学ぶと共に、藩には洋式の軍艦を製造する事を提言します。それを受け、長州藩では造船所を開設。実際に軍艦が製造されていきます。
さらに小五郎は様々な軍事に関する知識や技術を学び、来るべき有事に備えていきました。
そんな折、長州藩では松下村塾で吉田松陰の勲等を受け、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文など多くの優秀な人材が育っていきます。
小五郎自身はそんな松下村塾の塾生ではなかったものの、吉田松陰とは師弟の間柄でした。
そして安政の大獄で吉田松陰が処刑されると、長州藩は徐々に討幕に傾倒していき、小五郎も松下村塾で育った尊王攘夷派と共に活動していく事となるのです。
追い込まれる長州藩
しかしそんな長州藩は、4か国連合艦隊との下関戦争で敗北。八月十八日の政変で京を追われ、池田屋では新選組により多くの長州藩の志士が殺害、また捕らえられます。さらに続く禁門の変でも敗走し、長州藩はついに朝敵となってしまうのです。
そんな中で小五郎は、池田屋事件の時はたまたま早く着いたので、藩邸で時間を潰していて難を逃れました。
おそらく創作だと思いますが、池田屋で新選組の襲撃を受けると、小五郎は窓から外へ出て屋根伝いに走って逃げたとの説もあります。
また禁門の変で長州藩が朝敵になって以降は、各地に潜伏しながら逃亡生活を送ります。時に商人、また時には女装やホームレスにまで変装して身を隠しました。
この頃、小五郎が二条大橋辺りで物乞いに変装して隠れていた時、幾松という芸妓がおにぎりを差し入れて支えたといわれています。そして後に二人は結婚する事となるのです。
この辺りが「逃げの小五郎」と呼ばれる所以だと思われますが、小五郎は長州藩の行く末を案じ、どんな事をしてでも生き残ろうとする訳です。
ちなみに小五郎の物乞いの変装はうまくいっていましたが、ふんどしが綺麗だった事で怪しまれたりもしたのだとか。
朝敵となった長州藩は、西郷さんの説得もあり一度は降伏し講和を結びます。しかし藩内で高杉晋作率いる尊王攘夷派が反乱を起こし実権を握ると、小五郎も藩に戻り高杉晋作らと共に藩を統率していきます。
そして坂本龍馬の仲介のもと慶応2年(1,866年)、小五郎は長州藩の代表として薩摩の西郷さんと会談。薩長同盟が結ばれるのです。
そしてここから、負け続けた長州藩の逆襲が始まるのです。
明治維新
同年の第二次長州征伐では、薩摩藩から横流ししたイギリスの最新の武器や高杉晋作率いる奇兵隊の活躍により幕府軍を圧倒します。
また大久保利通などの反対で薩摩藩が幕府側で参戦しなかった事もあり、長州藩だけで幕府軍を退けるのでした。
翌年には「おもしろき こともなき世を おもしろく」と、高杉晋作が病死してしまうのですが、土佐藩などの働きかけで大政奉還が上奏。徳川慶喜により政権が朝廷に返上されました。しかしあくまでも武力による倒幕を目指す薩長は公家を味方に付け、王政復古の大号令により徳川家を追い込んでいき、やがて鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まります。
戊辰戦争の最中の明治元年(1868年)3月14日、明治政府により五箇条の御誓文が示されますが、これを木戸孝允(桂小五郎です)はちょいちょい修正しています。
「ここはテストで出やすいからよく憶えるように」との事ですが、当サイトではつまらないので割愛します。
そして戊辰戦争も終わり本格的に明治が始まると、西郷や大久保らと共に政府の役職に就き様々な改革に携わっていきます。
しかしその改革のひとつである版籍奉還(とりあえず藩は残すけど土地と戸籍は返上せよ)に、長州藩の奇兵隊らが反乱を起こします。木戸は軍を指揮しこれを鎮圧しました。
生前の高杉晋作が作った奇兵隊。
この時の木戸の胸中は如何に…って感じですね。
西郷との対立と西南戦争
その後は岩倉使節団の一員として、約2年に渡り先進国を視察。使節団が留守にしている間に、朝鮮を武力で開国させようという征韓論が主張されていました。帰国した木戸ら使節団の面々は、諸外国の進んだ文明を目の当たりにしてきた事もあり、この征韓論に反対します。
この事から対立が生まれてしまい、西郷さんや板垣退助らと、それに同調する政治家や軍人約600名が明治政府を離脱しました。
やがて身分制度の改正により苦しい立場に追い込まれていた士族(かつての一般の武士)の為、西郷さんが不満を抱えた士族を率いて政府に対し反乱を起こしました。
明治10年(1,877年)西南戦争です。
木戸はこの戦争終結の為に自ら動こうと明治天皇と共に京都へ行きましたが、病気が悪化し病床に臥す事となってしまうのです。
その最後は見舞いに来た大久保利通の手を握りながら
「西郷もいいかげんにしないか」
と言い残し、43年の生涯を閉じるのでした…
終わりに
いかがでしたでしょうか?
程なくして西郷さんは自決。西南戦争終結の翌年には大久保利通も暗殺。こうして「維新の三傑」は皆40代にして、明治時代の序盤で亡くなりました。
逃げの小五郎なんて呼ばれて失笑されもしましたが、畳の上で死ねただけ他の二人よりは良かったのかもしれませんね…
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