戦国最後の覇者 徳川家康の最後

戦国~幕末

ちょっと前ならおぼえちゃいるが~、江戸時代だとちと分からねぇなぁ~、って感じで…

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豊臣秀吉の跡を継いだ秀頼も、1615年の大坂夏の陣で母親の淀殿と共に自害。大坂方の逃亡兵は徹底的に探し出され、捕らえられて処刑されました。秀頼の息子である8歳の国松も処刑。これにより戦国時代から続く戦は終わり、本格的な天下泰平の世に入っていきます。

今回は戦国最後の覇者である徳川家康の晩年を取り上げます。

揚げ物、最近きつくなって来たな…

ちなみに冒頭のはダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の引用?です…

あ、これはそのバンドは「「スモーキン・ブギ」って曲もあって…

ってネタの解説いいからさっさといけや!!

良かったら家康 前編→https://gozasourou.com/ieyasu1/

家康の統制

徳川家に対抗できる勢力はもう何処を探してもないように思われましたが、家康の願いは自分の死後も末代まで続く徳川の安泰と繁栄。江戸時代は1,603年に徳川家康が征夷大将軍に任命された事ですでに始まっていますが、武力だけではなく、政策の面でも各地の大名たちを抑えていきます。

この頃は朱印船と言って、海外渡航を許可する朱印状を持った船が広く海外と貿易を行っていましたが、家康はこれを幕府が管理する事で儲けると共に、西国の大名などの利益を削りました。さらにキリスト教を禁止する禁教令も発令され、キリシタンの台頭を抑えます。

これは信長や秀吉も行っていて、現在の感覚からすれば宗教弾圧って事になるんだろうけど、当時のスペインやポルトガルは色んな国を植民地にしていました。そういった国から宣教師が来ているので、国を守る政策として当然とは思います。

ただ南蛮の珍しい品には興味があるし、何しろ貿易で利益は上げたい訳です。この事はかつての支配者たちにも悩ましい問題でした。

幕府が支配する大名は、古くから徳川に仕える家臣を「譜代大名」、関ヶ原の戦い以降に加わったのが「外様大名」と呼ばれています。外様大名は基本、江戸から離れた土地に置かれ、有力な外様大名の近くには譜代大名が配置されていました。

大坂夏の陣の後、伏見城に諸大名たちが集められ「武家諸法度」が発令されます。これは家康が跡を継いだ秀忠に命じて出されたもので、各地の諸大名を統制する為の13か条の厳しいものでした。

続いて公家諸法度も出され、朝廷が政治に介入できないように抑えます。京都所司代という機関が置かれていますが、これは京都の治安を守ると共に朝廷の監視という側面もありました。

家康自身はすでに息子の秀忠に将軍職を譲り隠居していましたが、実質的な権力を持ち後継者をしっかり育てていきます。

健康志向で長生き

ちなみに将軍家から後継者が途絶えた時の為の保険が「御三家」と呼ばれていています。その場合には御三家から代わりに跡継ぎを出しますが、これも家康の息子が務め代々受け継いでいきます。家康の側室は20人以上いたといわれていて、子供は養子などを除けば16人でした。

う~む、絶倫!!

そんな家康はこの時代としては長く生きた方で、征夷大将軍に任命された時点で60歳。秀吉が亡くなったのが61歳ですから、家康の天下は長寿が故といえます。人生50年といわれる時代においては戦で戦死する事も多いですが、病で若くして亡くなる事も結構ありました。

家康は数々の戦を生き延びると共に、大変な健康志向でも知られていて、普段から粗食を心掛け酒も控えめにしていたのだとか。

まあ、その割にはぽっちゃりだけど。

薬剤の調合にも精通してその知識は専門家も唸らせるほどだったといいます。

孫の家光(後の3代将軍)が病気の時も家康が調合した薬で回復したとの事です。

ちなみに家康の最後の実子は66歳の時に生まれていますので、精力剤も作れたのかもしれませんね。

知らんけど…。

しかし江戸幕府の基礎をしっかり固めていった家康にも、やがて最後の時が訪れるのです。

最後の晩餐 天ぷら

晩年には天ぷらが好物だった家康は、元和2年(1,616年)1月21日、鷹狩りの帰りの夕食に鯛の天ぷらを食べた後に倒れてしまうのです。

そして4月17日に死去。約75年の生涯を終えるのでした。天ぷらはたまたまのタイミングで、死因は胃がんだったといわれています。家康は後に朝廷から東照大権現の名が贈られ、日光東照宮に祀られました。

辞世の句

先にゆき あとに残るも 同じこと つれて行けぬを わかれとぞ思ふ

これは「自分は先にあの世に行くけど、後を追うような事はするなよ」という、家臣たちを思っての言葉だといわれています。

昔は殉死と言って、主君の後を追っての自殺なんていうのがあったので、お前たちはそういう事をするなよという訳です。

終わりに

いかがでしたでしょうか?

家康は一応「海道一の弓取り」とか「武芸の達人」ともいわれていますが、それは戦慣れからとの記述もあります。あの信長と共に戦う事も多かった訳なので、数々の戦を経験していますから。

「五百余騎の三河武士が自分の宝」

として家臣を大事にし、また家臣も家康を信頼していました。そんな家康の家臣に対する思いと、時には厳しい統制が基になり、それが江戸幕府を長く続かせた要因となったのかもしれません。

ちなみに家康最後の戦となった大坂夏の陣の時は、なんと御年74歳!!人生50年どころか人生100年といわれる現在においては、いくつになっても老け込む必要はないという教訓にもなりますよね。

子供だって作れます!!

家康が調合した精力剤は現在にも伝わってるのかな…?

っいや、精力剤作ってねーよ!!

たぶん…

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