大坂夏の陣 幸村の最後と豊臣氏の滅亡

戦国~幕末

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大阪冬の陣では自身の作戦が却下されながらも、その活躍で徳川に大打撃を与えた真田幸村。家康からの10万石の誘いも断り、一説によると信濃国40万石を与えるという上積みされた条件を出されても、豊臣に対する忠義を通したのだとか。

やっぱアンタかっこいいぜ。

でもパチンコの演出ではもう少し頑張って!!

徳川と豊臣の講和

1,614年に起こった大阪冬の陣も、徳川と豊臣の間で講和が結ばれる事で治まりました。互いに妥協しての事ではありますが、けっきょく大坂城は本丸を残して取り壊し。外堀だけではなく内堀まで埋められました。

内堀に関しては徳川が強引に行ったという説もありますが、いずれにしてもこれで籠城戦は出来なくなった訳です。当然の事ながら徳川軍が辛酸を嘗めさせられた真田丸も、跡形もなく取り壊しですね。

しかし家康は豊臣氏を滅ぼす事をすでに決めていたかのように、大坂方が戦の準備をしていると難癖をつけます。豊臣側が到底飲めないだろう条件を出し、これを拒否してくると大坂へ向けて侵攻を開始。こうして1,615年、戦国最後の戦「大坂夏の陣」が始まるのです。

この戦は家康をして「3日分の食料があれば十分」と言わしめるほど、豊臣氏との戦力差は歴然でした。

豊臣軍約5万5,000人に対し徳川軍約15万5,000人といわれ、すでに籠城戦も出来ない豊臣軍に勝ち目はないはずでした。が…、またしても赤甲冑のあの男が立ちはだかるのでした。

冗談じゃねえぞ、このやろー!!(花の慶次!…のパチンコ!!)

大坂夏の陣

4月26日、豊臣側の先制で郡山城を攻め落とし開戦の狼煙が上がると、ここではしばらく徳川軍の浅野長晟の軍勢との攻防が繰り広げられます。

5月6日には大坂城に向かう徳川軍を迎撃するも、ほとんど返り討ちに合うような形になってしまいます。しかし遅れて到着した幸村がここでも活躍。伊達政宗の軍勢を散々苦しめると撤退しますが、徳川軍も疲弊し追撃は出来なかったとの事。その際に幸村は

「関東の連中は百万いても候、男は一人もいないな候」

などと挑発しながら引き上げていったのだとか。しかしながら圧倒的に数で勝る徳川軍が、徐々に豊臣軍を追い詰めていきます。

5月7日、大坂近辺まで追い詰められた豊臣軍の最後の戦いが迫っていました。幸村は軍の士気を高める為に秀頼の出陣を要望するも、淀殿や家臣の反対で実現しなかったとの事。秀頼にもしもの事があったら?いやいや、ここで負けたらどの道終わりでしょうに。

幸村が総大将だったら本当に天下をひっくり返していたかもしれないですね。でもそれだと前線で活躍出来ないか…

攻勢に出て来た徳川軍の前に豊臣軍も応戦し乱戦となる中、意を決したように幸村が兵を率いて正面突破で突撃していきます。

家康は遙か後方、陣の一番後ろ。守るのは約1万3,000もの松平忠直の軍勢。幸村は家康目掛けてこれを突っ切っていきます。押し返されながらもこの攻勢は3度に渡り、家康を守る旗本さえ散り散りにしたのだとか。旗本とは位の高い家臣ですから、それすら逃げ出すほどの攻撃だったという事です。

この時、武田信玄の侵攻の前に敗走した時の「三方ヶ原の戦い」以降、倒される事がなかった家康の旗印(のぼりみたいなやつ)も倒れ

「討ち取られるぐらいなら…」

と家康に自害さえ覚悟させたといいます。

わしもう70オーバーよ…By家康

しかし家康にあと少しの所まで迫りますが、そもそもが多勢に無勢。ついに押し返され幸村は敗走。豊臣軍全体も大坂城へと退却します。幸村は戦いで傷つき疲弊し神社の境内で身体を休めていた時、徳川軍の兵に見つかり討ち取られました。

翌日には大阪城も徳川軍に囲まれ、炎上し攻め落とされます。秀頼に嫁いでいた家康の孫娘は救い出されましたが、秀頼と淀殿は燃え上がる城内で自害しました。

終わりに

いかがでしたか?

大坂夏の陣の終結。これにてどのような説を用いたとしても戦国時代は終わりとなります。そしてこの後、約250年に渡る天下泰平の世が続いていく事となるのです。

ちなみに、戦国時代をやり切った事で勝手に達成感に浸っています。一応は資料や史実に基づいていますし、それと分かる場合は創作として紹介しています。諸説ありなら出来るだけそう注釈も入れました。

しかし、定説とは変わっていく場合もあります。それはもう、勘弁して下さい!!

けど、やり残した事もけっこうあるかな~

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