安政の五ヶ国条約から50年 明治の終わりの不平等条約改正

明治~現代

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幕末から明治維新を経て近代化を進めてきた日本ですが、その中では幕末に列強諸国と結んだ不平等な条約の改正にも取り組んでいます。しかしこれは中々に難航。粘り強く交渉を続け、日清戦争日露戦争を経て、明治最後の年にようやく解消されるのです。

井伊直弼が調印した「安政の五ヶ国の条約」から、じつに50年余りの時が経っていました…

ん~、井伊直弼ーッ!!!!

井伊直弼 安政の五ヶ国条約

皮肉にも江戸時代で最も安政でなかった安政5年(1,858年)、日米修好通商条約が締結。引き続き同じような内容の条約を、幕府はイギリスとフランスさらにオランダとロシアとも結んでしまい、これを安政の五ヶ国条約といいます。

これは治外法権や領事裁判権を認め、また関税自主権を持たないなど、日本にとっては大変に不平等なものでした。しかし外国と戦うすべを持たない当時の日本は戦争になる事を恐れ、こういった条約を次々と結んでしまったのです。

これらの条約は大老の井伊直弼の権限で調印されていきましたが、天皇の許可を得ずに行ったという事もあり、幕末には尊王攘夷という考えが広がります。

そういった者達を井伊直弼の主導で大量に捕らえ処刑した「安政の大獄」や、その井伊直弼が殺害された「桜田門外の変」などの悲劇もありました。

そして明治に入り数々の改革で近代化を進める中、この不平等条約の改正にも取り組んでいくのです。

ノルマントン号事件

江戸時代の日本は外国との交易を極めて制限していたので、世界の変化には疎い状態でした。

そこで明治4年(1,871年)、100名にも及ぶ「岩倉使節団」が結成され、約2年に渡り先進諸国の視察を行います。その中で条約改正の意志を示しますが、この時はまともに取り合ってもらえませんでした。

しかし明治11年(1,878年)7月、寺島宗徳が外務卿の時に、一度はアメリカとの間で関税自主権の回復に成功しそうになります。ただこの時は結局ヨーロッパ諸国(特にイギリス)の反対で、アメリカとだけという訳にもいかず実現はしませんでした。

次に井上馨が外務卿(外務大臣)の時代、日本の近代化をアピールする為に欧化政策がとられます。

西洋式の鹿鳴館が麴町区(現在の千代田区)に建てられ、国賓や外交官が招かれ舞踏会などが開かれます。しかし妥協案を飲むなどがせいぜいで、この時も大きな成果は上げられませんでした。

ちなみに井上馨は元長州藩士で、さらに松下村塾の塾生。高杉晋作や伊藤博文らと共に、吉田松陰の勲等を受けています。

そんな折の明治19年(1,886年)10月、ノルマントン号事件が起こります。これはイギリスの貨物船ノルマントン号が紀伊半島沖で難破した際、船長以下イギリス人やドイツ人の乗組員26名が救命される中、日本人は助けられず25名全員が犠牲になったというものです。

しかし領事裁判権が認められている事からこの事件を日本の裁判にかける事は出来ず、このイギリス人船長は無罪となりました。これには日本側も激しく抗議しましたが、結局は禁固3か月という極めて軽い刑で終わる事になるのです。

こうした事から日本国内でも次第に条約改正を求める声が大きくなり、反対運動も起こり、結果を残せない井上馨は外務大臣を辞任しました。

大隈重信

次に明治21年(1888年)2月、大隈重信が外務大臣に就任し、これまでと方針を変え、欧米諸国との個別交渉を開始します。すると翌年2月には大日本帝国憲法が発布。これは扱いの微妙なトルコを覗けばアジアで最初の近代的な憲法となり、諸外国との交渉を後押しします。

アメリカやロシアとドイツが次々と改正条約に調印しますが、これは大審院(現在の最高裁)に限り外国人判事の任用が認められるという内容だった事から、それが報じられると再び国内で反対運動が起こります。

そして大隈は過激派による爆弾テロに合い、右足切断という重傷を負ってしまうのです。

ちなみにこの大隈重信は早稲田大学の創設者でも知られ、アメリカの野球チームを招いた親善試合で始球式に登場。これは暴投となりましたが、打席のバッターは忖度してわざと空振り。以降、始球式の時は空振りをするのが慣例となったのだとか。

さらに大隈氏はこの怪我で政治家として終わった訳ではなく、大正時代に入ってから再び総理大臣になっています。ただそんな大隈も、さすがにこの時は重傷でしばしのお休みとなります。

カミソリ大臣 陸奥宗光

次に外務大臣を務めたのは青木周蔵で、この青木は条約改正の一番の反対勢力と思われたイギリスから交渉を開始します。すると意外にもイギリスは譲歩し、日本側の提示した改正案に同意を示します。

実はイギリスとしてもこの頃、アジアにおけるロシアの南下政策を脅威に感じており、日本を味方に付けたいという思惑がありました。

しかし、そうした事情も手伝って条約改正に動くかと思われた矢先の明治24年(1,891年)5月、志賀県大津にてロシア皇太子が巡回中の津田巡査に襲われるという事件が起こります。ロシア皇太子の命に別条はなく軽傷でしたが、青木は責任を取って外務大臣を辞任。条約改正の交渉は頓挫してしまうのです。

ちなみにこの頃はまだ反ロシアの感情も薄かった日本国民からは、この津田を死刑にしろとの声も上がり、さらにロシアとの関係を考えた日本政府も津田は死刑に処すべしという考えでした。

しかし当時の大審院長は被害者が日本の皇族でなく、さらに殺人未遂であることも考慮し、津田には極刑ではなく無期懲役の判決を下しました。

この事は司法の独立を守ったとして、逆に先進諸国から評価され、日本は三権分立が機能しているという事を国際社会に示す結果となりました。

続いて外務大臣となったのは榎本武揚。戊辰戦争では最後まで旧幕府軍を率いて抵抗し、五稜郭の戦いで降伏した元幕臣です。しかしここではこれといった成果を上げられませんでした。

そして明治25年(1,892年)、外務大臣に就任したのが長い顔で知られる陸奥宗光です。

いやべつに長い顔では知られてねーよ!!って感じですが、長い顔ではあります。

そんな陸奥宗光はカミソリ大臣と呼ばれた切れ者で、生前の坂本龍馬とも交流がありました。大隈重信外相の時代の明治21年(1,888年)には、駐米公使兼駐メキシコ公使としてメキシコとの間で、日本初の外国との平等な条約を結んでいます。

この陸奥宗光の粘り強い交渉により明治32年(1,894年)7月、ロンドンで日英通商航海条約に調印。ついに領事裁判権が撤廃されました。

これは明治35年(1,899年)からの実施で12年間有効との事で、後に欧米諸国とも同様の条約を結んでいきます。

そしてその有効期限が迫った明治44年(1911年)2月、小村寿太郎外務大臣により日米通商航海条約が締結。これにより関税自主権が回復されるのと、欧州諸国とも同様の条約を締結し、ここにようやく幕末以来の不平等条約が解消されるのです…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

条約改正がというのはもちろんですが、有色人種の国が白人国家に対してというのがかくも大変だったという事でもあります。しかしこれにてようやく先進諸国と対等になりました。アジアの小国が唯一という事を考えると本当にこれは凄い事でした。

出典:Wikipedia

ちなみに条約改正に大活躍した陸奥宗光は、奥さんが超絶美人という事でも知られています。

う~む、陸奥亮子…

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