てやんでい!べらぼうめい!!って感じで
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江戸弁というのもすっかり耳にする事は無くなりましたが、生粋の江戸っ子である勝海舟といえばなんといっても「江戸無血開城」の立役者で知られています。
そして、なんだったら斬り捨ててしまおうと意気込んで会いに来た坂本龍馬が、逆に弟子入りしてしまうような人物でした。
しかし明治政府では役職に就く事もありましたが、あまり長続きせず改革にも積極的には関わりませんでした。
そして明治32年(1,899年)1月19日
「コレデオシマイ」
と言い残してこの世を去りました。
今回はそんな勝海舟の生涯です。
おひけぇなすって、皆々さま…
破天荒な父親 勝小吉
勝海舟の粋な性格は、時に人によって評価が分かれたりします。実際に浦賀与力の中島三郎之介や、福沢諭吉などとは微妙な関係でした。しかし龍馬は勝先生の事を「日本第一の人物」と称したり、西郷さんも男惚れしています。
そんな勝先生の性格の形成に、大きく影響を与えたのが父親の勝小吉。幼少の頃に旗本の勝家に養子入りしていますが、この人がまた実に面白い人なのです。少年の頃は喧嘩ばかりしていた悪ガキで、成長しても喧嘩や道場破り、また遊郭遊びを繰り返し、怒った父親に3年も座敷牢に閉じ込められました。
小吉は働こうにも学が無く字も書けないので、飲み屋の用心棒など町の顔役のような事をしていました。
大変貧しい暮らしながらも、町人が小吉を慕ってよく家に集まり、その賑わう様子を幼少の勝先生は眺めていました。
小吉は大人になってから字を覚え、後に「夢酔独言」という自伝を残しています。
「俺ほどのバカな男は世の中にあんまりあるまいと思う」
要は俺を反面教師にしろよという事ですね。
小吉の甥に「幕末の剣聖」と呼ばれた男谷信友という人がいますが、この人は江戸三大道場の面々でも敵わないといわれた程の腕前だったそうです。しかし小吉はそんな彼を、片手で軽く捻り倒したのだとか。
勝麟太郎 誕生
そんなある意味「江戸最強の不良」である小吉の息子として、文政6年(1,823年)1月30日、江戸の本所にて勝先生は生まれました。幼名を麟太郎。他にも幾つか使いましたが、麟太郎か海舟で知られていますね。
本所は現在の墨田区の下町なので、もうバリバリの江戸っ子です。
勝先生は9歳の頃、野犬に股間を咬まれ睾丸を片方失うという大怪我をしています。医者もお手上げな程でしたが、小吉は泣きじゃくる勝先生の枕元に、短刀を突き立て言います。
「ここで死んだら犬死に…」
いや、うまい事言ってる場合か!!
しかしその後も小吉は神社で水垢離をしたり、添い寝をしたりして息子を励まし続けます。そのかいあってか、勝先生は約70日後に回復するのでした。
ちなみにそんな小吉も少年時代に、崖から落ちて片方の睾丸を潰しています。
勝家、どんな運命だ…?
勝先生は16歳の時、小吉の勧めで島田虎之介の道場に入門します。勝先生はあまり剣豪の印象はないですが、直心影流免許皆伝を受けています。この虎之介の教えは人を倒すより剣を治めさせる、殺すより生かすという活人剣。ここで精神を鍛えられた事も、勝先生の人間性に影響を与えました。
そして独学で蘭学や西洋式兵法を学び、後に蘭学や兵法を教える塾を開いたといわれています。
咸臨丸で渡米
嘉永6年(1,853年)、ペリーの艦隊が開国を求めて浦賀沖にやって来ます。いわゆる黒船来航です。蘭学を学び開国の必要性を感じていた勝先生は、海防の方法などを説明した意見書を幕府に提出。これが注目され2年後、幕府の外国語翻訳係に就任しました。
さらに幕府が設立した長崎海軍伝習所に入門。ここで学んだ技術を、後に江戸に設立された軍艦操練所で教える事となります。
万延元年(1,860年)、アメリカに帰航する軍艦の護衛として日本の咸臨丸が派遣され、教授方頭取(艦長説も)として渡米します。
滞在中はアメリカの進んだ文明を目の当たりにしますが、帰国後に老中からアメリカの様子を聞かれた際
「我が国とは違い、アメリカでは高い地位にある者は、その地位相応に利口でございます」
などと皮肉を返し、老中衆を激怒させたりもしました。
そして勝先生は後に明治政府が記した「五箇条の御誓文」や坂本龍馬の「船中八策」よりも早く、議会政治の開設や、身分の上下問わず広く人材を登用すべきという主張をしています。
龍馬 西郷との出会い
文久2年(1,862年)12月、尊皇攘夷の機運が高まる中、攘夷派の若者の訪問を受けます。自らを殺しに来たと思われるその若者を、勝先生は
「まあはいりなさい」と、屋敷に招き入れると
「日本はここ」と、地球儀の日本を指さし
「べらぼうめい、外国と対等に渡り合おうってもんさ、このままじゃ日本は外国の食い物にされちまうぜい」と、その若者を諭しました。
それを受けた若者はその場で勝先生に弟子入り。それがあの坂本龍馬なのです。
その後は海軍奉行に就任し、龍馬と共に神戸海軍操練所の設立を目指します。
こうした事から勝先生は、日本海軍の父としても知られています。
さらに勝先生は元治元年(1,964年)、朝敵となった長州征伐の征長軍参謀となった西郷さんと大阪で会談。勝先生の影響を受けた西郷さんは、長州藩に武力行使はせずに説得して降伏させるのでした。
勝先生の考えは外国と渡り合える強い日本を作る事。その為には先進国に学ばないといけないというものでした。幕府のあり方は良しとしてはいませんでしたが、国内で争って外国に付け込まれる事を危惧していました。
しかし薩長同盟が結ばれ立役者だった龍馬も暗殺されると、薩長はいよいよ武力による倒幕に傾倒。慶応4年(1,868年)、戊辰戦争が始まりました。
江戸無血開城
王政復古の大号令によりすでに幕府はなく、さらには旧幕府軍は朝敵となりました。将軍慶喜は朝廷に対し恭順の姿勢を示す為、上野の寛永寺で謹慎に入ります。これにより幕府の実質的な指導者は勝先生になりました。
新政府軍が着々と北上し、いよいよ江戸総攻撃が迫っていた頃、江戸城ではその対応について協議されていました。勝先生は戦って勝てるかどうかよりも、江戸100万の民を危険にさらす事は出来ないとして戦いを避ける道を選びます。
山岡鉄舟の下交渉はこちらhttps://gozasourou.com/edomukethukaijyou/
まず民衆を船で非難させて、交渉が決裂したら城下に火を放つよう準備を進めました。そうした覚悟を最終手段として勝先生は、江戸総攻撃を翌日に控えた3月14日、西郷さんとの最後の会談に臨みました。
そして降伏して江戸城を明け渡す事で、江戸総攻撃は中止されるのでした。
やがて戊辰戦争は終結し本格的に明治時代が始まりますが、自身はさほど積極的に改革には携わらず、晩年は赤坂氷川で過ごしました。
そして明治32年(1,894年)1月19日
「コレデオシマイ」
約76年の生涯を終えるのでした。
終わりに
いかがでしたでしょうか?
血の一滴も流されず江戸、延いては日本を守ったといっても過言ではない勝先生でしたが、幕府に仕える身でありながら戦わずして降伏した事は、裏切り者や腰抜けなど多くの非難を浴びる事にもなりました。福沢諭吉も勝先生の事を「不忠者」と書き記しています。
しかし勝先生は自分自身を「大不忠の忠」と皮肉っています。
「やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておけば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ」
ちなみに勝先生は民子という正妻の他に何人もの妾と子がいましたが、みんな同居でもうまくいっていたそうです。ただ民子からは、勝と一緒の墓には入りたくないと言われてしまうのでした…
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