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豊臣秀吉の天下統一によっていったんは治まった戦国時代も、その秀吉の死によって再び不穏な空気に包まれる事に。やがて戦国最後の大花火が打ち上げられようとしていました。
西と東の大戦争や!! By郷田龍司
その中心人物の一人は、言わずと知れた徳川家康。後に天下泰平の世を築く大将軍です。今回はそんな家康の天下取り直前辺りまでを追っていきます。
ふんどしは綺麗にね!
人質から独立 清州同盟
徳川家康は1,542年、三河(愛知県の東)の松平家に生まれます。徳川家康とは1,566年辺りからの名で、幼少の頃は竹千代、その後は松平元康、今川と切れた頃から家康を名乗っています。
そんな家康は織田、次いで今川の人質として預けられるという、不遇ともいえる幼少時代を送ります。
今川氏のもとで1,555年に元服した家康は、1,560年の桶狭間の戦いに参戦。先鋒として活躍するも、今川義元が討たれると今川軍と共に敗走。
そのどさくさでちゃっかり三河の岡崎城に帰ってしまいました。
敗走の途中で自害しようとして寺の住職に止められたりしながらも、12年ぶりの帰還を果たします。すると今川を見限って織田信長との同盟を締結。これを清州同盟といいます。
その後は1,564年に三河で起こった一向一揆を治めると、足利義昭の上洛の時は信長に援軍を送り、1,570年には信長と共に金ヶ崎の戦いに参戦します。
この戦いは浅井長政の裏切りに合い敗走しますが、家康も光秀や秀吉と共に殿(しんがり)を務めたという説も。すかさず同年、信長と共に姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を退けました。
武田との戦い
1,572年には、比叡山の焼き討ちと「第六天魔王信長」の返信に怒った武田信玄が約3万の大軍を率いて進軍。これを迎え撃ったのが三方ヶ原の戦いです。
信長からの援軍も送られましたが、武田軍の前には歯が立たずに敗走。這う這うの体で浜松城に逃げ込みます。しかし多くの家臣の犠牲のもとに生かされた家康は奮起し、なんとか武田軍の追撃を封じ込める事に成功するのでした。
ちなみにこの時使った作戦は空城計という心理戦で、あえて門を開き敵軍を迎える事で逆に相手に警戒心を抱かせるというもの。「な、なにか罠でも…」と思わせるだけという、一か八かの賭けでした。
家康はこの敗走の時に馬上で恐怖から漏らしてしまい、それを家臣に悟られると
「こ、これは味噌じゃ」
と強がったのだとか。しかしそんな自身への戒めの為にこの時の肖像画を描かせています。
有名な面白いエピソードですが、まあそういう説もあるという事ですね。本当はカニ味噌だったという…
いやそこ重要!?
って感じで、その後も武田軍の侵攻は続きますが、信玄の病気が悪化して武田軍は引き上げていきました。
1,575年、長篠の戦いでは、リベンジに来た信玄の息子の勝頼を信長や秀吉と共に退けます。
しかし1,579年には側室の築山殿と息子の信康が武田と通じているとして、信長から信康の切腹を通達されます。家康は信長との関係を考慮し、信康に切腹をさせ築山殿も殺害しています。
ただこれは親子の対立という、単なる家康の事情だったという説もありますね。
伊賀越え 三河に帰還
その後は信長と共に武田を攻め、勝頼を自害に追い込んで武田氏を滅亡させると、その働きを評価されて駿河国を与えられました。
そこで信長に対し大規模な接待をすると、そのお礼に安土城に招かれます。そのさなか、中国で毛利を攻めていた秀吉から援軍の要請が入りました。
信長も出陣するというので帰ろうとすると
「家康殿はもう少し滞在して楽しんでいくといい」
と言うのでそうする事にしました。
しかし1,582年6月2日、本能寺の変が起こるとその時は僅かな兵と堺に滞在していた家康は、光秀軍に襲撃されると大変マズい状況に陥ります。この時、自棄になって自害しようとする家康をたしなめたのが徳川四天王の一人「本田忠勝」です。
忠勝は戦国最強の呼び声も高く「蜻蛉切り」という長槍を使います。この槍は切れ味鋭く、なんでも飛んでいたトンボが槍の穂先に当たると真っ二つに切れたというほどなのだとか。武田信玄からも家康にはもったいない男と評されていますね。
そんな忠勝の説得もあって、なんとか伊賀の険しい山を越えて三河に帰る事が出来たのでした。
秀吉に臣従 江戸へ
秀吉が光秀を討ち織田の跡取りを決める清州会議が開かれていた頃、家康は北条との小競り合いの後に同盟を結び、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河を治める大大名となりました。
1,584年には信長の次男の信雄に協力を求められ秀吉と戦う事になりますが、本格的な衝突の前に秀吉と信雄が和睦を結んでしまうので撤収を余儀なくされます。
う~む、わしって…
家康は秀吉からの再三に渡る上洛の要請を断り続けていました。しかし秀吉が自分の母親を人質によこした事で、そうまでされたら仕方がないとして1,586年に上洛。秀吉に頼まれ臣従する事となります。
そして1,590年には小田原攻めに参戦し秀吉の天下統一に貢献。その後は江戸に移り250万石の大名となりました。
これは秀吉が大きな権力を持つ家康を京都から遠ざけたかったともいわれていますが、石高としては220万石の秀吉より家康の方が大きいんですよね。こういう所は秀吉の上手い所で、一説によると家康を連れションに誘って話を切り出したのだとか。
故郷の三河を明け渡すのは家康としても承服しかねる事ですが、連れションの効果かは分かりませんが秀吉に従っています。ただ当時の江戸は未開で250万石ほどの石高とはならなかったのはご愛敬。
しかし、その後の発展は現在の我々も知る所となります。
ちなみに石高とは、秀吉の太閤検地により土地の価値を米の収穫量に換算した基準です。
秀吉の死 その後
家康は朝鮮出兵には参加せず江戸の発展を進め、上洛した時には伏見城を拠点とします。
1,598年に秀吉が自分の死後の人事として、五大老に徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家を。五奉行に浅野長政・石田三成・増田長盛・長塚正家・前田玄以を指名しこの世を去りました。
ただ、徐々に家臣のまとまりが悪くなっていき、家康は政略結婚などで各地の大名と親戚関係を結んで地盤を固めていきます。他の五大老に責められたりもしますが、豊臣家からの信頼も厚く影響力も強かった前田利家が死去すると、ようやく鶯(うぐいす))が鳴いたとばかりに天下取りに動いていくのです。
加藤清正は朝鮮で作戦を巡り対立した小西行長を支持したとして、石田三成とも対立。黒田長政や福島正則らと三成邸を襲撃します。三成はなんとか逃げ出しここは家康が間に入り治まりますが、近江の佐和山城に隠居されられてしまうのです。
三成はこの時19万石の大名で家康とは格が違っていましたが、秀吉への忠誠を誓う三成は、豊臣家を脅かす家康を討ち倒す意思を固めるのでした…
終わりに
いかがでしたでしょうか?
家康は三河の弱小領主から大大名にまで成り上がりました。そんな家康にもまた、信長や秀吉とも違ったらしさがあったんですよね。
ちなみに家康は倹約家で、汚れが目立たないからと薄黄色のふんどしを好み家臣にもこれを勧めていました。
しかし、家臣たちもこれにだけは従わなかったのだとか。
う~む、家康さん…
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