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戦国武将は数あれど、中でも稀に見るライバル関係で知られるのが武田信玄と上杉謙信。幾度も戦いを繰り返す中で、お互いに尊敬しあうような感情も生まれたといいます。
正に北斗の拳の「強敵と書いて友と読む」といった感じですよね。「漢と書いて男と読む」
……!!
「魚と書いて肴と読む」
「鮭と書いて酒と読む」
って読まねーよ!
いや読むけども!!
お酒はほどほどにね!
風林火山 武田信玄
武田信玄といえば軍配を振りかざしたガチムチ系おやじの印象が強いですよね。
え、違うかな…?
戦国最強の呼び声も高く、騎馬隊や風林火山で有名です。
ちなみに風林火山は「孫氏の兵法・軍争編」の一節が元ネタで、風林火山の先は陰とか雷と続いていきます。
信玄は1,521年に甲斐の大名「武田信虎」の子として生まれます。兄が早世してるので長男の扱いですね。信玄というのは1,559年に出家してからの名で、最初は太郎。活躍しだした頃は晴信と名乗っています。
そんな信玄は、父親である信虎の民衆から信頼を得られないようなやり方に憤りを感じていたようで、信虎が駿河の今川に会いに行っている間に追放してしまいます。そうして武田家の当主となると、隣国の信濃(長野辺り)に攻め込みます。
その一方で、政策としては「甲州法度之次第」という法律を定めたり、金山の開拓にも積極的に取り組み財政を安定させます。釜無川では大掛かりな治水工事を行い、長らく国を水害から守りました。これは信玄堤といわれてます。
しかし信濃への侵攻は順調に拡大していましたが、領地を追われた者たちが越後(新潟ら辺)へ逃げ込み頼ったのが「長尾景虎」。後の上杉謙信です。そしてこれにより、武田信玄と上杉謙信の長く続く戦いが始まる事になるのです。
毘沙門天 上杉謙信
上杉謙信といえば毘沙門天で知られてます。軍神とも呼ばれ信心深く、戦国大名として名を挙げるというよりも幕府の守護大名としての立場を守っています。
なので戦う時も「攻撃を受けたから」とか「頼られたから手を貸した」とかが理由の「義の人」としても知られています。
なんか漫画に出てくる昭和の番長みたいなんですが、実は上杉謙信は女性説というのがあったりします。生涯独身だったとか妾も囲っていない事などが理由のようですが、流石にそれは俗説でしょう。
ちなみに当時の概念なので微妙なのですが、占領した地で人身売買を行ったとか、謙信自体は指示していないものの家臣がやってるのを黙認したとかいう説もあります。
そんな謙信は1,530年、長尾為景のもとに生まれます。1,536年に兄の晴景が家督を継ぐと出家しますが、やがて病弱だった晴景の頼みもあって手助けをする事になると、元服して長尾景虎を名乗ります。
しかし後の通り名はなぜか「越後の龍」。…いやそこは虎だろ!って感じで、謙信と名乗るのは1,570年ぐらいからですね。
そんな謙信は、まずは反乱を抑え越後をまとめていきます。1,548年には家督を譲り受け、越後守護代となり春日山城の城主に。すぐに越後統一を果たします。
1,552年、城を追われた関東管領の上杉憲征に頼られ北条から城を取り戻すと、信玄の侵攻により領地を追われた者たちも次々と越後に逃げ込んできました。
そこは頼られれば見捨てない義の人。謙信はそういった人々の面倒をみるのと共に、武田軍を卑怯として「悪い奴らは許さん」との勢いで出陣します。
こうして始まるのがあの有名な川中島の戦い。じつに12年に渡り5度も戦う事になるのです。
ちなみに川中島は長野盆地の千曲川と犀川の合流する辺り。現在では川中島駅があります。
川中島の戦い
1,557年、謙信の軍勢は信濃に進軍しますが、謙信には上洛の予定があり
「そうだ、京都へ行こう」(JR西日本!)
などと思ったかはどうかは分かりませんが、信玄の本隊とは衝突せずに引き上げました。
信玄と謙信はその後2度ほど川中島で戦い、大きく戦況が動く事はありませんでしたが、その間には「武田 今川 北条」の間で三国同盟が結ばれています。
謙信の方は上杉の家名を継いだりしていますが、国の乱れや戦いが嫌になったとかで
「そうだ、高野山に行こう」(JR西日本!)
と出家を決意しますが、家臣の必死の引き止めに合い断念。一方、信玄は出家しましたがさらなる野心に燃えました。
ちなみに謙信の出家騒動は、家臣たちをまとめる為のあえての行動だったとの説もあります。高野山は日本仏教の聖地の1つです。
そして1,660年、桶狭間の戦いにおいて織田軍によって今川義元が討ち取られると、信玄は織田信長を侮れない者と思うと同時に謙信との決着に向かうのです。
1,661年、4度目の川中島の戦いでは両軍ついに激しく衝突。武田軍はキツツキ戦法という作戦を行ったといわれています。
これは二手に分かれ一方から攻撃を仕掛け、敵軍の動く方向で別動隊が待ち構え一気に叩くというもの。
さらに謙信が一騎で武田の陣に駆け込んで信玄を斬りつけ、それを信玄は軍配で受け止めたという逸話もあります。
乱戦になり最後は上杉軍が引き上げる形にはなりましたが、明確な勝敗はつかず、両軍合わせて約6,000人の犠牲を出しました。
1,664年にはまたもや川中島で対峙。しかし大きな衝突はないまま終了。こうして通算5回に渡る戦いは決着がつく事なく終わり、これ以降は戦う事もありませんでした。
信玄と謙信の最後
その後、信玄は今川義元がいなくなった駿河に侵攻しますが、北条が今川について同盟は解消となります。今川は武田に塩の供給を止めるという経済制裁を行いますが、それを卑怯な行為とした越後の謙信から大量の塩が送られたといわれています。
敵に塩を送るというあれですね。
この逸話は創作の可能性もありますが、信玄から謙信に贈られたお礼の品は現存しているとの事です。
さらに信玄は将軍からの要請で信長包囲網に参加し、信長から焼き討ちにあった比叡山延暦寺の住職に頼られます。信長に「仏教の側に立ち貴様を倒す」というような内容の書状を送ると、それに対し信長は「第六天魔王信長」との返事を返したといわれています。
この話も事実かは分かりませんが、じつは信長は信玄の事をもっとも恐れていたとの事。武田軍は本格的に攻め込んでくると、三河の家康をチビらせ簡単に追い払いました。
信長も包囲網で大ピンチでしたが、野田城を取られる所で信玄の病気が悪化し、武田軍は甲斐に引き上げていきました。
「信玄がもう少し長く生きていたら歴史が変わっていた」ともいわれるほどの強さを最後まで見せましたが、病には勝てず1,573年、53歳で亡くなりました。
謙信はその知らせを受け大変悲しんだといわれていますが、その謙信も越中(富山)を平定し、さらに上洛を急ぎ能登(石川)の平定を目指しましたが、その途中の1,578年に49歳で急死しました。
そしていよいよ、信長が天下統一へと進んでいくのです…
終わりに
いかがでしたでしょうか?
武田信玄と上杉謙信。戦いの中で互いに認め合える敵と出会うなんて、なんか少年漫画の設定みたいで熱いですよね。
そして信玄は息子に遺言を残していています。
「自分の死後3年はその事を隠してその間に体制を整えよ。そしてなにかあれば謙信を頼れ」
信玄の謙信に対する思いが伺えます。
ちなみに二人とも大酒飲みで濃い味付けのつまみが好きだったとの事。
おじさん気を付けましょ~
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