江戸無血開城とは、江戸を戦場にしない為に江戸城を新政府に明け渡した事と、その為に勝海舟と西郷隆盛の間で行われた交渉です…
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慶応4年(1,868年)1月、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まりました。しかし一夜にして旧幕府軍が朝敵となると、総大将の徳川慶喜は早々に大坂城を脱出。江戸に帰って寺に籠って(謹慎)しまうのです。
着々と北上してくる新政府軍。ついに勝海舟と西郷さんによる歴史的な会談が行われる事になります。
見た目にも大物感が漂う西郷さんですが、個人的には勝先生に比べたら、飛べない豚はただの豚ですよ。
個人的な主観がすげぇな…
東征軍 北上
鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍は、徳川慶喜の追討を掲げた東征軍を編成。
あれは朝敵 征伐せよとの
錦の御旗じゃ 知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ by品川弥次郎
と、東海道、東山道、北陸道の三手に分かれて、着々と江戸へ向け北上していきます。
江戸城では対応について協議され、家臣の多くは戦う事を主張します。しかし慶喜は朝廷と事を構えるのを良しとせず、恭順の姿勢を示すために上野の寛永寺で謹慎に入ってしまうのです。これにより事実上、慶喜は退場という事になり、以降旧幕府は勝先生が指導者となるのです。
江戸に着いた東征軍は品川と板橋に陣を張り、総攻撃の時を待ち待機。
西郷さんら首脳陣は駿府城(静岡県)に総督府(本部)を置き、江戸攻撃の日時は3月15日に決定されました。
山岡鉄舟の奮奮闘
そんな中、慶喜は「自分は降伏し完全に従う」という意思を伝える為の使者、山岡鉄太郎(鉄舟)を駿府城に送ります。この山岡は武芸に優れた幕臣で、身長六尺二寸(188㎝)体重二十八寛(105㎏)という大柄な体格でした。
山岡は駿府へ行く前に
「慶喜様の命令は受けたが、勝海舟さんに挨拶しない訳にもいかないだろう」
と、勝先生に会い断りを入れます。その人柄を認められると勝先生からも任を預かり、山岡は旧幕府側の使者として駿府へ乗り込むのです。勝先生は保護していた薩摩藩士の益満休之助を
「お前さん、薩摩の連中には顔が利くだろ?こいつを守ってやってくんな」
と、山岡の護衛に付けました。
勝先生、素晴らしい。
駿府に着いた山岡は西郷さんとの面会を求めます。西郷さんはそれに応じ、会談が行われました。
山岡の交渉により、西郷さんから江戸総攻撃を中止する条件が出されます。しかし山岡はその中のひとつ、「徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける」という項目だけは受け入れられないと拒否します。
「これは朝廷からの命令でごわす」
と凄む西郷さんに対し、山岡は
「もし逆の立場であなたが薩摩藩主を他の藩に預けるように要求されたら、あなたは黙ってそれに従うのですか⁉」
と、詰めよります。
それを受けた西郷さんは、江戸の民と主君の為に単身敵陣に乗り込んできた山岡の立場をおもんばかり、心を動かされるのです。
勝海舟と西郷隆盛の会談
勝先生は江戸に戻った山岡から報告を受けます。江戸を戦場にしない為にも東征軍との武力衝突を望まない勝先生は、同時に日本が外国の植民地になる事も危惧していました。
西郷さんとの交渉に臨む前に、江戸の民を船で房総に避難させ
「もし交渉が決裂した時は江戸の城下に火を放つ」
と、民衆に協力を求めます。
そうした覚悟を最終手段とし、江戸総攻撃の前日3月14日、江戸城で勝先生と西郷さんによる最後の会談が行われました。
勝先生が交渉の最終手段とした覚悟はハッタリだったかもしれないし、山岡による下交渉により西郷さんの考えはすでに決まっていたのかもしれません。
一説によると、新政府を支持していたイギリス公使パークスの圧力があったともいわれています。これは降伏している相手になおも攻撃しようとする新政府軍に
「ソレオカシイヨ、ダメヨ」
とパークスが憤慨し、それを知った西郷さんが慌ててパークスの意向に従ったというものです。
まあ実際には幕府側を支持していたフランスとの駆け引きなんかがあったみたいですが。
ただいずれにしても、この会談により江戸無血開城が決定。文字通り血の一滴も流れず、江戸城は新政府に明け渡されるのでした。
しかし以前から旧幕府内には新政府軍に徹底抗戦しようとする勢力があり、彰義隊という部隊を編成していました。慶喜は条件通り水戸へ移りましたがその後の5月、彰義隊は決起。
慶喜が謹慎していた上野の寛永寺に集まり、上野戦争と呼ばれる新政府軍との衝突が起こります。
これは新政府軍のアームストロング砲などの兵器により、わずか1日で鎮圧。これにより新政府が江戸を制圧するのでした。
山岡鉄舟の評価
この江戸無血開城は歴史的な出来事といわれていますが、日本の未来を考えてというのは勝先生、西郷さんどちらも同じです。ただ、臆病者の謗りを受けてもなお江戸、延いては日本を守ろうとした勝先生と、あくまでも武力倒幕にこだわり、ほとんど降伏している相手を執拗に攻撃しようとした西郷さん…。それをどう思いますかって事なんですよね。
そして下交渉で活躍した山岡鉄舟は明治時代を生きています(勝先生もだけど)。維新十傑の岩倉具視は、この時の功績が勝海舟一人のものとなっている事に
「手柄は勝に譲るにしても、事実は後世に残すでおじゃる」
と、山岡を説得。西郷さんはそんな山岡を
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るでごわす」
と、称しています。
そして山岡は明治21年(1,888年)、享年53歳で惜しまれながら亡くなりますが、その死を悲しんだ者たちによる殉死という、後追い自殺も多発した程だったとの事です…
終わりに
いかがでしたでしょうか?
西郷さんはこの後の活躍もあるのであまり悪くは言いたくないんですが、少なくともこの江戸無血開城に関しては、圧倒的に勝先生や山岡の器の大きさが勝っているように思いますね。とにかく江戸を戦場にしない為に尽力したのです。
ちなみに勝海舟、山岡鉄舟、それから山岡の義兄の高橋泥舟(でんしゅう)を、幕末の三舟と称したりしますね。
高橋ど、どろぶね…?
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