投げる手裏剣ストライク~♪って感じで
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外国人に人気の日本文化というと様々なものがありますが、サムライやニンジャもよく知られた存在です。現在では日本の漫画やアニメも世界に誇る文化ですが、そういったものの題材になる事も多いです。
しかし武士や侍は実態までそれなりには知られていますが、忍者の方はその性質からか今一つ知られていません。
創作のキャラクターはいろいろな忍術を披露していますけど、もうそういう事にしておけばいいじゃんとは思いますよ?
思うんですけど、幻想を壊さない程度に実在した忍者を取り上げたいと思います…
伊賀と甲賀
忍者の起源や発祥というのも諸説ありではありますが、だいたい源氏や平氏の大きな武士団が形成されて以降、また忍者集団なるものが各地で生まれたと見られています。
とにかくあまり無粋な事をいうと、むしろ外国人が怒るので気をつけないとね。
「お前は日本人のクセに何も分かってない」
はあ、すみません…
所で忍者というと、どうしたって「忍者ハットリくん」や「甲賀忍法帖」などの影響で伊賀と甲賀が有名で、伊賀と甲賀はライバル関係にあり、時につぶし合ったりという風に描かれる事が多いです。
ただ実際は伊賀も甲賀も元々はひとつの流派だったそうで、分かれてからも特に仲が悪いという事もなかったようではあります。
それ以外だと、忍者というよりは盗賊といった方がしっくりとくる集団ですが、風魔党という北条氏に仕えた組織があります。
風魔小太郎と飛加藤
まずはその風魔党の頭目である風魔小太郎です。「風魔小太郎」というのは代々風魔党の頭目に受け継がれてきた名前だそうで、よく創作物などで語られるのは5代目風魔小太郎との事です。
漫画の「花の慶次~雲のかなたに~」にも出て来て、パチンコでは激アツのストーリーリーチでしたね。
5代目風魔小太郎の身長は七尺二寸(約2m16㎝)で筋骨隆々。鼻が高く髭は濃く、口からは4本の牙がはみ出していたのだとか。
そして勝どきを上げるその雄たけびは、なんと5キロ先にまで届いたそうです。
前田慶次が確か197㎝だから、創作の慶次よりデカい!!
とはいえこっちも創作かもしれませんが…、風魔小太郎自体は存在したようです。
その風魔小太郎から忍術を教わったとされるのが加藤段蔵で、飛加藤(とびかとう)の名でも知られています。この人も花の慶次に出て来ましたが、小柄な老人ながらも中々の幻術使いでした。
実際の飛加藤も牛を丸飲みにするという「牛呑の術」や、まいた種を即座に発芽させ花を咲かすという「生花の術」といった幻術を使ったそうです。
それらは現在でいう所の手品のようなものらしく、上杉謙信の前で披露した時には、高所から見ていた家臣にタネを見破られてヤジを飛ばされてしまったそうです。
ていうか牛呑の術にどんなタネがあるんだろうかという感じですが…
しかし飛加藤は続いて生花の術を披露します。そしてその花の茎を切ると、先ほどのヤジを飛ばした家臣の首が飛んだのだとか。
う~む…
そして飛加藤は感心した上杉謙信から
「上杉景綱の屋敷から刀を盗み出して見せよ」
という試験を出されます。
そしてそれを受けた飛加藤は景綱の屋敷から難なく刀を盗み出し、さらには景綱の娘まで連れ出しました。
要は刀だけでなくハートまで奪って見せたと…?
しかしながらそんな優秀過ぎる飛加藤ですが、逆に上杉謙信に警戒されてしまう事になります。
しかし不穏な空気を感じた飛加藤は操り人形に芸をさせ、人目を引いている間に逃げる事に成功しました。
その後は武田信玄に仕えるも、こちらでも傭兵的な立場で優秀な飛加藤は警戒され、最後は武田家の手によって殺害されてしまったそうです。
様々な忍術
ところで忍者というと小柄で身軽、さらには様々な忍術を使うといった印象がありますよね。
なのでこの飛加藤は、創作の忍者のイメージにかなり近い人物といえます。
忍者が使う道具というと、真っ先に上がるのは手裏剣やまきびしです。他にはくないや短刀、また仕込み刀と呼ばれる、キセルや笛に仕込んだ刀なども携帯していたようです。
しかし敵地に忍び込んで情報を持ち帰るのが主な任務ですから、忍者にとって戦うというのは最終手段で、基本は逃げる為の技が多かったようです。火遁の術とか水遁の術のように、遁というのは逃げる為の術です。
ただ我々が想像する水遁の術というのは、どういうシチュエーションで必要になるのかは謎ですが…
ちなみにくノ一と呼ばれる女性の忍者も実在したそうで、漢字の「女」という字をばらして「くノ一」としたのが定説ではあります。
その実態は諸説ありですが、女性ならではという事ならやはりハニートラップ的なものを想像してしまいますけどね。
忍者ハットリくんのモデル
さて続いては伊賀三大上忍の一人、百地丹波です。この人はもしかしたら日本よりもアメリカで有名かもしれません。2,002年オープンのワシントンDCの国際スパイ博物館で、日本の忍者として百地丹波が紹介されています。
天正7年(1,579年)、織田信長の次男の織田信雄が伊賀を攻めますが、百地丹波の戦略などでこれを撃退。失敗した信雄に信長は激怒します。
そして天正9年(1,579年)、今度は信長自身が5万ともいわれる軍を率いて伊賀に侵攻します。さすがの伊賀忍たちもこれには多勢に無勢で、伊賀は織田軍により制圧されました。
現在の忍者村では自慢のからくり屋敷が再現されていて、様々な仕掛けが施されていますが、囲まれて火を放たれたらそれらも無意味ですよね。
しかし生き残った伊賀忍は徳川に召し抱えられる事になります。
そこで活躍したのがあの有名な服部半蔵。忍者ハットリくんのモデルであり、半蔵門の地名の由来でもあります。
この「服部半蔵」も風魔小太郎と同様に代々受け継がれた名で、よく取り上げられるのは2代目との事です。
ただこっちの服部君は忍者ではなく槍使いの武士だったそうで、徳川の伊賀組をまとめるの指揮者として任命され、徳川家康の伊賀越えの立役者で知られています。
1,582年6月2日、家康が信長から安土城に招かれ滞在中に、ご存じ「本能寺の変」が起こります。
明智光秀の謀反で信長が死去。
その時30人程度の側近やお付きだけという家康の一行は、光秀の手勢などに襲われると大変まずい状況でした。しかし家臣の本田忠勝や服部君の活躍で険しい伊賀の山々を越え、何とか家康の本拠地である三河に辿り着く事ができたのです。
終わりに
いかがでしたでしょうか?
本稿では実在した忍者を取り上げましたが、忍者は隠密行動が基本ですから、むしろ存在や実態が知られてないのが当然ともいえます。
なので実は決して文献には残らない、名もなき超絶優秀な忍者が存在していたのかもしれません。
ちなみに百地丹波や服部半蔵と並んで伊賀三大上忍の一人に数えられる藤森長門守は実際
「名前や顔が知られているようでは一流の忍びとはいえない」
みたいな言葉を残しています。
いやまあ、あんたもだよねぇ…?
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