第一次、第二次、2度に渡る上海事変 日中の深まる対立

明治~現代

上海事変とは、簡単にいうと上海において2度に渡り発生した日本と中国の武力衝突です。共に日本の勝利ですが、特に第二次上海事変においては多数の犠牲者を出しました…って感じで

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昭和12年(1,937年)7月7日、日頃から緊張感が漂っていた北京市豊台区の盧溝橋付近で、夜間演習を行っていた日本軍に銃弾が撃ち込まれるという「盧溝橋事件」が発生。小競り合いから本格的な武力衝突に発展しそうになりますが、現地で中国軍との間で休戦協定が結ばれました。

しかし日本に侵略されていると感じていた中国は、その後も再三に渡り日本軍を挑発。さらには中国人による猟奇的集団惨殺事件である「通州事件」で、日本人居留民223名が犠牲になりました。

その後も華北の各地で小規模な衝突が起こり、やがて戦火は上海にも拡大。宣戦布告がなされないまま、いよいよ本格的な戦争状態へと突入していくのです…

深まる対立

通州事件が起こった直後の30日には、日本軍により北京や天津が陥落。日本側は少なくとも表向きは戦争は望んでないという体でしたが、中国側は反日感情も高まり各地で交戦の構えを見せていました。

なら休戦協定なんか結ぶなよって感じですが、中国も一枚岩ではないのと、中国からしたら侵略者の日本には何をしてもいいという考えですから。

ただこういった戦いを、日本軍は次々と退けていました。

そんな折の昭和12年(1,937年)8月13日、中国側が上海で大きな軍事攻撃を開始。これを第二次上海事変といいます。

ちなみにこの時は第二次なので当然ながら第一次がある訳ですが、その第一次上海事変は満州事変の最中、日本が満州全域をほぼ制圧していた昭和7年(1,932年)1月28日に起こりました。

第一次上海事変

第二次上海事変の時もそうですが、当時は上海共同租界が置かれていました。租界とは外国人居留民が住む土地で、幾つかの国で共同管理していたのが共同租界です。

ここでは日本人居留民が約3万人暮らしており、日本海軍唯一の陸上戦闘部隊である上海海軍特別陸戦隊、約1,000人が駐留していました。

満州事変の要因にもなった中国人の反日感情の高まりは、ご多分に漏れずこの上海でも発生しており

「打倒日本アル!!」

として排日運動が起こります。

日本政府は日本人居留民の安全を確保する為に兵を増やしていきます。

そんな中で1月18日、日本人僧侶と信徒の計5名が中国人に襲撃されるという事件が発生。これにより1名が死亡、2名が重傷を負いました。

そしてついに28日、日本と中国の間で武力衝突が勃発します。

しかしこの日本人襲撃事件は満州事変の首謀者である板垣征四郎大佐が、国際社会の目を満州から逸らす為に上海で何か事件を起こすよう命じたという事が、東京裁判において田中隆吉少佐により証言されています。

この証言が事実なら、第一次上海事変も関東軍の自作自演という事になりますね。とはいえ軍事衝突に関しては、遅かれ早かれ起こっていたんでしょうけど。

いずれにしろ国民革命軍の19路軍と上海海軍特別陸戦隊が衝突。中国側の戦力は約8万ともいわれますが、日本も援軍を送り何とかこれを退けます。

市街では便衣兵という一般人に紛れた軍人が日本人街を襲ったり、日本人が自警団を結成して便衣兵狩りを行ったりもしています。

3月3日に19路軍が撤退した事で、日本軍は戦闘の中止を宣言。5月5日に停戦協定が成立しました。

こうして第一次上海事変は終了。第二次が昭和12年8月だから、この停戦協定はまあ長く持った方なんですかね。

第二次上海事変

話は戻って第二次上海事変ですが、こっちは裏でドイツが煽っていたという説が濃厚です。

日本とドイツは昭和11年(1,936年)11月25日、日独防共協定が結ばれています。これは簡単にいうと共同で共産主義に対抗していこうというもの。

ドイツが煽ったのは蒋介石(しょうかいせき)の国民党とはいえ、仮にも協定を結んでいる相手を貶めるような事をしますかね…?普通。ドイツは中国軍を強化するよう色々と支援してますからね。日本からしたら

「そりゃねえべ」って感じですよ。

ただその蒋介石からしたら、日本の支配地域の拡大は何とかしたい所。ドイツの協力を得て軍を強化していきます。

日本は繰り返される武力衝突を止める為に、中国に精通している船津辰一郎を通じて和平交渉を行おうとします(船津工作)。

しかしそんな中、日本海軍の大山中尉と斎藤一等兵が乗る車に、マシンガンで銃弾が撃ち込まれるという事件が発生(大山事件)。これにより大山、斎藤、両名が死亡。

8月12日には約3万人の中国軍に日本人街が包囲され

「アチョー!!」

翌13日についに中国軍が攻撃を開始。日本は上海海軍特別陸戦隊を含む約4千人余りでこれに応戦。こうして第二次上海事変が始まりました。

翌14日には中国軍の誤爆により民間人3千人以上の死傷者を出します。

翌15日には中国軍の増援が合流し総勢7万人以上となり、対する日本側も援軍が到着するも総勢約6千人余りという、更なる大きな戦力差となってしまいます。

しかし日本軍も上海派遣軍が編成されたり、その後も次々と援軍が送られ徐々に押し返していきます。

そして日本軍の3個師団からなる第10軍が上陸すると、退路を断たれる事を恐れた中国軍はフランス人租界などで略奪を行いながら退却。

こうして第二次上海事変は終わりましたが、この戦いで日本側も約4万人という甚大な死傷者を出してしまうのです。

日本軍は首都の南京方面に退却していった中国軍を追撃。やがて南京も制圧する事となりますが、ここで何かと議論となるあの南京大虐殺が

行われたとか行われなかったとか…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

当然と言えば当然ですが、中国国内では反日感情の高まりから緊張感が漂い、各地で小規模な武力衝突が発生していました。日本としても不拡大政策の方針がとられ、休戦協定が結ばれたりもしてきましたが、日本はそんな中国軍を退けながら勢力を拡大。その中で起こったのが第二次上海事変でした。

しかし日本は苦戦こそすれ、中国に対しては連戦連勝ですな。この辺で終わらせて、列強諸国とは外交で関係を改善していければ良かったのにね。

ゲルマン魂は格好いいけど、この頃のドイツと組んだのは悪手だったかな…

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