【足利義政】応仁の乱や明応の政変など室町幕府に混乱を招いた珍将軍

古代~室町

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くじ引きで決まった将軍の足利義教でしたが、将軍として意外な活躍を見せました。ただ、行き過ぎた強行姿勢により大名たちの反発を招き、赤松氏の勢力により殺害されます。

山名持豊(後の宗全)などの活躍で首謀者とされる赤松満祐を自害に追い込みますが、やがて幕府は将軍の跡継ぎに苦慮する事になります。

細川氏の実権のもと8歳の義成が将軍になりますが、この義成が成長し足利義政(あしかがよしまさ)となり、やがて室町幕府に大混乱をもたらす事になるのです。

熟女好きの若将軍 足利義政

足利義政は永享8年(1436年)1月2日、くじ引きで決まった将軍の足利義教(よしのり)と側室の間に生まれます。

父親である義教は嘉吉元年(1441年)6月24日、嘉吉の変で赤松氏の勢力により殺害されています。

義教の嫡男(ちゃくなん)である義勝が9歳で跡を継ぐものの、義勝は在任約8ヶ月ですぐに亡くなってしまいます。

そこで側室の子ながら義教の次男にあたる、8歳の義政が跡を継ぎ第8代将軍に就任する事になりました。

いやぁ、いくら将軍職は世襲制といってもあまりにも幼いですね。昔の人は結婚も早いし、現代の同年齢より貫禄があったのかもしれませんが、さすがに今も昔も8歳は8歳ですよ。

そこでしばらくは管領の細川勝元が実権を握る事になります。管領は幕府で将軍に次ぐ役職となります。

さて幼くして将軍の座に就いた義政ですが、この義政は熟女好きで、自分の乳母を好きになってしまいます。

乳母とは実母の代わりに世話をする女性なので、まあ幼子の感情としては分からなくもありません。

ただその後も周りの年上女性にばかり興味を示すので、跡継ぎの事も心配な側近たちは義政に若い女性をあてがいます。

それでも若い娘には中々興味を示さない義政でしたが、一応20歳の頃に日野富子という年下の女性と結婚。若い娘に目覚めたのかは分かりませんが子供も出来ました。

ただ最初の子は男児でしたが早世してしまいます。その後、女児は生まれるも男児が誕生せず、さらに義政は政治にもさほど関心を示さず遊んでばかりでした。

そこで細川勝元を後見人とし、出家した弟の義尋を養子に迎え、いずれ義政の跡を継がせる事にします。

義尋はまだ二人に息子が生まれる可能性を考え渋りますが

「息子が出来ても出家させて跡は継がせない」

というので、義尋は還俗(俗人に戻る)して義視(よしみ)を名乗ります。

ところがこのように話がまとまったすぐ翌年には、義政と富子の間に男児が誕生するのです。

まあそんなもんですよね、義政さん…

「だから嫌だって言ったのに…」

と義視の声が聞こえてきそうです。

ただどうあれ義視に跡を継がせる約束をしたのだから、本来であれば男児が誕生しようが問題はないはず。しかしながら待望の男児が誕生した富子は、実子である義尚(よしひさ)に跡を継がせたい訳です。

さあ約束と妻の願望との板挟みとなってしまった義政さん。

困った義政さんはそれでも将軍としてビシッと自分の意見を通せば良かったのですが、なんと家出をしてしまうのです。

おいおい…

出家じゃないですよ?家出です。

まあ出家もダメですけど。

応仁の乱

義政はすぐ戻りましたが、富子は有力者である山名宗全を実子である義尚の後見人にします。こうして「義視&勝元」と「富子&宗全」の派閥が出来上がってしまい、この事はやがてちょっと笑い話ではすまない事態になっていきます。

同じ頃、管領の畠山家でも従兄弟の間で家督争いが起こっていて、兄の政長(まさなが)には勝元、弟の義就(よしなり)には宗全がそれぞれ味方に付いていました。

約束された跡継ぎ実子を次期将軍に
足利義視
細川勝元
畠山政長
日野富子
山名宗全
畠山義就

畠山兄弟の武力衝突は時間の問題という事で、ここは義政も勝元と宗全を呼び出し、毅然とした態度で両者に手出し無用と釘を刺します。

そして寛政4年(1467年)、ついに畠山兄弟が衝突。

勝元は義政の命令を守り手出しはしなかったのですが、宗全は義就に援軍を出します。その事により義就軍が優勢になり、政長は敗走しました。

しかし同年、今度は勝元の細川軍が宗全の山名軍を攻撃。

こうして将軍家と畠山、両家の跡目争いを原因として始まる戦いが、歴史の授業でもお馴染みの応仁の乱です。

この戦いは両軍入り乱れ、足軽と呼ばれる者達の略奪行為も横行。全国から武士が集まり、戦場となった京都はやがて焼け野原のようになってしまうのです。

文明5年(1473年)には宗全も勝元も亡くなり、翌年に両家の間で講和が結ばれます。

同年、義政は実子である義尚に跡を譲り隠居。

地方から参戦していた武士も、自分の領地で反乱が起こったりして徐々に引き上げていきました。

こうして次第に戦いは終息していき、文明9年(1,477年)実に約11年にも渡る戦いは、勝者もはっきりとしない形で幕が引かれるのです。

ちなみにしつこく争っていた畠山兄弟も、一揆が起こってどちらも追放されてしまいました。

義政だけが悪い訳ではないにしろ、もう少し将軍として毅然とした態度を示していたらこんな事にはなっていなかったのかもしれません。

お家騒動再び 明応の政変

少々残念な将軍であった義政さんは、応仁の乱の最中(さなか)将軍の座を実子である義尚に譲っていますが、その義尚は若くして死去してしまいました。

そしてその後、一時的に将軍職に復帰。再び跡継ぎを立てる事となります。

義政さんと細川勝元の息子である政元は次の将軍に義澄を推しますが、義政さんの妻の日野富子がまたもや出しゃばって、今度は義稙をプッシュしてきます。

義稙は応仁の乱では対立していた義視の息子。しかし義稙の母親が富子の妹という事で、富子からすると義稙は甥っ子にあたります。

つまり富子としてはこの際、なんとしても日野家の血筋の者を将軍にしたいという訳です。

義澄推し義稙推し
足利義政
細川政元
日野富子
足利義視

なんかややこしいですが、まあ要するに「将軍家のお家騒動」という事だけ分かってもらったらOKです。

ここはけっきょく富子が意見を通し義稙が将軍になるのですが、義視、義稙の親子と富子は次第に合わなくなってしまいます。

「やっぱりあんたがいい」

という事で富子はけっきょく義政さんのもとに帰りますが(色んな意味で)、義政さんは延徳2年(1490年)1月7日、病気により約54年の人生に幕を下ろしました。

そしてこの時すでに将軍は義稙。

この義稙と義澄の対立に畠山兄弟の家督争いも合わさって、義政さんもこの世を去った後の明応2年(1493年)、明応の政変というまたもや幕府のお家騒動が起こります。

ていうか畠山兄弟いつまでやってんの⁉って感じですが、この戦いは最終的に義稙が降伏するような形で終わりました。

そして明応3年(1495年)、義澄が第11代将軍となりましたが、こういう事も含めて徐々に幕府は衰退していきます。

やがて各地の大名が「ならばわしが」って感じで名を挙げ、やがて戦国時代が本格化していく事になるのです。

ちなみに何かと混乱の原因ともなった日野富子は、日本三大悪女に数えられています。

悪女になるなら月夜はおよしよ素直になりすぎる~♪って感じで

三大悪女は豊臣秀吉の側室である淀殿(茶々)、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の正妻である北条政子、そしてこの日野富子です。

東山文化

応仁の乱はもちろんの事、この明応の政変も、もとはと言えば義政さんが混乱を招いたのがキッカケとも言えます。

しかしそんな義政も文化人としては評価が高く、足利義満の時代の北山文化に対して、義政の時代は東山文化と呼ばれています。

義満の金閣寺に対抗するように銀閣寺を建てていますが、その建築様式は現代の日本家屋の造りの原型にもなっているのだとか。

ただ残念ながら、義政さんは銀閣寺の完成を待つ事なくお亡くなりになりましたが。

貴族や武家が中心の北山文化に比べ、東山文化は庶民的な文化ともいわれています。日本の美意識である「わび、さび」の影響が強いのも特徴。

「浦島太郎」や「一寸法師」などが有名な「御伽草子」も庶民の間で楽しまれました。

しかし先に上げたように、その後は室町幕府の影響力も次第に弱まり、代わりに各地の大名が我先にと名を挙げ、やがて戦国の世へと突入していくのです…

本稿は試験勉強にはあまり役立たないので、学生の方は良ければ下記も参照に

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終わりに

いかがでしたでしょうか?

本稿では室町幕府の愛すべき珍将軍、足利義政を取り上げました。

将軍の曖昧な態度によって将軍家のお家騒動が勃発。そうして始まった応仁の乱は10年以上続き、京都の多くを焼け野原にしてしまうのでした。

ただ将軍としては残念な部分もある義政でしたが、本来は兄である義勝が早世しなければ将軍になる立場ではありませんでした。

また立場が違って文化人として活躍していたら…。

適材適所って大事なんだなって思いますね。

ちなみに室町幕府は元亀4年(1573年)に、あの織田信長によって終止符が打たれます。

なのでこの後も意外と長く持ちこたえました。

大人の学びには良ければこちらも

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