【鎌倉幕府成立】北條氏の台頭からの幕府VS朝廷

古代~室町

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いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府でお馴染み鎌倉時代。しかし、現在では1185年に成立という考えが主流とか。…じゃあ最初からそう教えろよ!いいくにってなんだよ?

皆が幸せに暮らせる世の中です

いや、そうですが!?

じゃなくて源頼朝が征夷大将軍に任命されたのが1192年。壇ノ浦で義経軍が勝利したのが1185年。同年、頼朝に一定の権限が与えられる。新しい発見があったのならともかくだよ?そんな事実、分かった上でいいくに(1192)って決めたんなら、もうそれでよくない?って話よ。

まあオレはどっちでも構わないッスけど、そんな事より鎌倉街道の渋滞ひでえなぁ…

え、そんな事⁉

北条氏の執権政治

征夷大将軍となった源頼朝でしたが、落馬して寝込んでしまい程なくして死亡。これもお決まりの諸説ありで、暗殺説もあれば脳梗塞やら何やらの病気説や、乗馬中に発作か何かで意識が朦朧として落馬した説があります。

頼朝亡き後は長男の頼家が後を継ぎますが、御家人からの評判が最悪で追放されます。

次に頼朝の次男の実朝という人がいるんですが、この人は歌が好きで将軍になんかなりたくなかったそうです。

そういえばスクールウォーズにも名村財閥の息子でロックバンドやってる奴が出てきたが、この実朝という人もそんな感じだろうか。

スクールウォーズというのは、荒れ果てた高校に赴任した元ラグビー日本代表の先生が、数年かけてラグビー部を全国優勝させるという伝説のドラマ。人間模様の丁寧な描かれ方が素晴らしく…

スクールウォーズの説明きた!!

実朝は仕方なく将軍になりますが、日本を脱出しようとさえ試みていました。しかしそんな実朝もなぜか右大臣にまで出世するのですが、1219年に鶴岡八幡宮参拝の帰りに暗殺されてしまうのです。

こうして源氏の天下も三代で終了。頼朝の妻である北条政子が存命でもあったので、ここから北条氏による執権政治が始まります。執権とは簡単に言うと将軍の次に偉い役職です。

ちなみに征夷大将軍になれるのは源氏か平氏の血筋の者(血の濃さも関係)なので、北条は血筋的に将軍にはなれないとの事。そこで血筋のいい者を朝廷から呼んで形だけの将軍を立て、その下の執権という立場で政治を行うのです。

幕府嫌いの上皇

武士の活躍が認められ、武士による政治を行う「幕府」が開かれましたが、朝廷内にはそれを不服に思う人達もいました。いくら朝廷の下でとはいっても、権力を持った幕府など邪魔に思う貴族も少なくなかったんですね。後鳥羽上皇などはまさにそんな幕府嫌いでした。

しかし度々出てくるこの、後○○天皇(上皇)とうのは、アメリカなんかの○○Jr.みたいな感じなのかな?二世タレントもそう呼んだら分かりやすいね。後渡辺、後佐藤、後水谷、後木村、キリがねぇ…そして分かりやすくもなかった。

ちなみに後○○というのは「加後号」といって、ただ単に二世という訳でもないようです。まあ、血筋ではあるから間違いでもないですが。

幕府嫌いの後鳥羽上皇も、先ほど出た実朝の事は気に入っていたという説もありです。実朝は武士であっても貴族に憧れていたようなので、上皇からすれば「ういやつじゃ」って感じだったんですかね。分かりませんが。

ただ1221年、北条義時追討の院宣(上皇の令)が出され、これを「承久の乱」というのですが、幕府嫌いもあったろうけど、源氏亡き後、幕府を牛耳っている北条に対する嫌悪の思いも強かったのだろうと思われます。

頼朝の未亡人 尼将軍 北条政子

そんな承久の乱ですが、これで幕府は朝敵(朝廷の敵)となり、この大変な事態に武士たちも慌てます。天皇(上皇も)に弓を引く事は出来ないし、この時点では歴史上、朝廷に勝利した勢力もありません。朝廷側に寝返る武士も出てくる中、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の妻、あの北条政子が大演説を行ないます。簡単に説明すると

わてがてっぺんに立ってみせたるわ

姐さん!!

あ、これは極妻だった。政子さんのは

以前の我々はどうでしたか?朝廷からいいように使われ、立場も保証されず、そんな我々が武士としての権利を勝ち取り、幕府を開いた頼朝殿に対する御恩はないのですか?上皇に付くというなら私は止めません、どうぞ私を斬って行きなさい

分かりやすく説明するとこんな感じですか。

この頃には尼将軍といわれ人気のあった政子の演説は、混乱した武士を奮い立たせます。

団結した武士は元来戦いのプロ。こうして歴史上初めて朝廷に勝利した勢力となるのです。後鳥羽上皇は隠岐に島流し。幕府はまたこういった事がないように、京都に「六波羅探題」という見張り機関を置きます。その後、1232年には北条泰時によって御成敗式目という法律が制定。北条氏の執権政治は続いていくのです。

いざ鎌倉の由来

ちなみに「いざ鎌倉」という言葉がありますよね。幕府になにかあれば鎌倉の御家人は真っ先に駆け付けるというたとえで、現在では難しい問題に取り組む時の決意みたいな意味でも使われます。

これは能という日本の伝統芸能の「鉢の木」という詩歌が由来になっているそうです。それは、北条時頼が出家し僧として旅をしていた時の事…。

ある雪の夜、時頼は佐野源左衛門常代という人の家に泊めてもらうのですが、貧しい暮らしながらも精いっぱいのもてなしを受けます。薪が無くなればその鉢の木まで火にくべながら

「これらは今の自分には無用。領地はだまし取られて貧しいが、いざ鎌倉の時には駆け付けて命を懸けて戦う覚悟」

なのだという。

やがて春になり武士に召集がかかると、その男は古鎧に身をつつみ、やせ馬に乗って本当に現れたのだとか。時頼の前に通されるとあの夜の僧だと分かる。時頼はあの晩の礼を言い、源左衛門の領地を取り返し、新たな領地も与えたそうです。

これは創作と言われてますが、幕府と御家人の絆の深さが伺える話ですよね。

ですが、そんな鎌倉幕府に世界最大帝国の圧力が迫っていたのです…

終わりに

いかがでしたでしょうか?

今回は鎌倉幕府の成立から、その存在を絶対的なものにするまでを取り上げました。

ちなみに今さらですが、鎌倉といえば大仏ですよね。

て、大仏の事すっかり忘れてた…

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