薩長同盟とは坂本龍馬などの仲介で成立した薩摩藩と長州藩の同盟で、追い込まれていた長州藩の救済と共に、幕府に対抗する強力な連合となりました…
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時は幕末。池田屋事件や禁門の変での活躍により、新選組に対する幕府の評価も高まっていました。一方で過激な尊王攘夷運動を繰り返した長州藩はついに朝敵となり、諸外国からも敵視され追い詰められていきます。そんな中
「おもしろき こともなき山口県を おもしろく」
と、いよいよ維新志士の動きも活発になっていきます。
あ、こともなき世を…、でした。
山口県の皆さまスミマセン!!
追い詰められる長長州藩
元治元年(1,864年)7月の「禁門の変」で敗走した長州藩は、久坂玄瑞や来嶋又兵衛などの優秀な人材を多数亡くす事になってしまいました。幕府は朝敵(朝廷の敵)となった長州の征伐の為、西国諸藩に出兵を命じ征伐軍が編成されます。
しかしそんな中、長州藩は英仏蘭米の連合艦隊と戦争になります。
これは長州藩が関門海峡を通航する外国船を砲撃した事への報復で、圧倒的な戦力の差を見せつけられ大敗する事となりました。
この一連の戦いを下関戦争といいます。そして長州藩が条件を飲む形で講和が結ばれました。
そんな長州藩にはさらに、15万ともいわれる幕府の征伐軍が迫っていたのです。
第一次長州征伐
尾張の徳川慶勝を総督、西郷隆盛を総参謀とした征伐軍でしたが、もともと外様大名が多く長州藩と戦う理由もない西国諸藩。じつはこの戦いにも消極的でした。西郷さんも武力行使は望んでおらず、ひとまず兵を待機させます。
この西郷さんは薩摩の下級藩士で、早くに両親を亡くして一家の大黒柱となっています。さらに藩の方針に従えず入水自殺を図ったり、生還するも島流しになるなど、とても順風満帆とは言えない半生を送っています。
しかし島津久光により恩赦を与えられると、この頃には薩摩藩の中心人物となっていました。
西郷さんは長州に向かう前に、大坂で幕府の勝海舟と話をしています。この勝海舟先生は福沢諭吉らとアメリカを視察もしている開国論者でしたが、弱腰の幕府の老中たちとは違い「外国と対等に渡り合わなくては」と考えていました。
なんでも自分を殺しに来た攘夷派の若者を
「まあ入りなさい」
と家に入れて、地球儀を見せると日本を指さし
「世界は広く日本はこんなに小さいのだ」
などと、その若者を諭したのだとか。その時の若者があの坂本龍馬です。
西郷さんもそんな勝海舟からの影響や、薩英戦争で外国との差を思い知った事もあり
「国内で争っている場合ではありもはん」
として、武力行使よりも降伏するよう長州に説得を試みる方針になっていました。そして総督である徳川慶勝の了承を得ると、岩国(山口県岩国市)藩主の吉川経幹と会談し、さらに下関で高杉晋作を説得。長州藩には
- 藩主が詫び状を書く
- 禁門の変の責任者3人の切腹
- 三条実美ら5人の公家を大宰府(福岡)へ移す
などの条件が出されています。長州藩がこれに応じた事により、西郷さんは戦わずして長州藩を降伏させる事に成功しました。これを第一次長州征伐といいます。
そして長州藩の中でも幕府を支持する保守派勢力が拡大していきますが、高杉晋作は家老の切腹が行われた事を知ると功山寺で挙兵。
慶応元年(1,865年)3月、藩内を制圧すると幕府支持派を追放します。これにより桂小五郎や高杉晋作が中心となって、藩内の実権を握る事になるのです。
薩長同盟
そんな新体制の長州藩も、連合艦隊に大敗した事で現実を知った事もあり、攘夷よりも
「幕府を倒して諸外国と渡り合える国を作ろう」
という考えになっていました。武器の購入も禁じられていた長州藩でしたが、長崎で「亀山社中」という組織を結成していた土佐脱藩浪人の坂本龍馬は、薩摩藩の名でイギリスの商人トーマスグラバーから武器を買い付け長州へ横流しします。
この頃「薩摩と長州は犬猿の仲」といわれていました。
長州藩は薩摩藩に対し「八月十八日の政変」や「禁門の変」での遺恨、また説得に応じたとはいえ「第一次長州征伐」の時も屈辱的な条件を飲まされたという思いもありました。しかし坂本竜馬や中岡慎太郎が間を取り持つ事で、この二つの藩が接近していきます。
龍馬は勝海舟を暗殺しようとするほどの尊王攘夷派でしたが、そんな勝海舟に諭されるとそのまま弟子入り。そして開国の必要性を感じるようになっていきます。
しかしこの頃には新しい時代を築く為、勝海舟のもとを離れていました。
龍馬は幕府に匹敵する勢力になるとして、薩摩と長州に同盟を組んでもらおうと考えていたのです。西郷さんもこの頃には「諸外国と渡り合うにはもう幕府では駄目だ」という思いになっています。
そして竜馬が両藩を説得し、会談の場が設けられました。
薩摩の代表は西郷さん、長州の代表は桂小五郎。そして龍馬が立会人となり、慶応2年(1,866年)1月、「薩長同盟」が結ばれるのです。この時の会談では両者が自分から切り出せない中、龍馬は西郷さんに「長州側の気持ちを察してあげて欲しい」と助言したそうです。
そしてここから、とことんツッパっては負け続けた長州の逆襲が始まるのです。
ちなみに龍馬の紹介で一時期、あの岡田以蔵が勝海舟の護衛に付いています。人斬りで有名ですよね。実際に多くの暗殺に関わっています。しかし護衛としてもその腕は確かでした。
ある夜、道を歩いていると3人の壮士(過激な活動家)が勝海舟の前に現れ、突然斬りかかって来たのです。そこを側にいた以蔵が一瞬のうちに手前の一人を真っ二つに斬り付けると、残る二人は慌てて逃げていきました。
勝海舟はその早業に感心するも、その時の以蔵の様子から
「殺す事を楽しんではいけないよ」
などと窘めますが、それを受けた以蔵は
「それだと今頃、先生の首が飛んでますよ」
などと返したのだとか。それを聞いた勝海舟には返す言葉もなかったそうです。
第二次長州征伐
同年6月、幕府はまた長州が倒幕の動きを見せているとして、今度は第14代将軍家茂が自ら軍を率いて長州へ向け進軍します。これを第二次長州征伐といって、幕府軍約15万人、長州軍約7,000人という戦いが始まります。
兵の数では圧倒的な幕府軍でしたがやはり西国諸藩はやる気がなく、密かに長州と同盟を結んだ薩摩は不参加。
一方、長州軍はイギリスから購入した最新の武器や兵器、さらには西洋式の戦術により、少ない兵で幕府軍を圧倒します。
そんな中、大坂城で将軍家茂が病死。幕府はそのことを理由に停戦を申し入れ、長州もそれを受け入れます。しかしこの第二次長州征伐は、負け戦を繰り返した幕府の実質的な大敗となりました。
そして長州一藩に敗北した幕府の権威は失墜し、いよいよ260年続いた江戸幕府の終わりが近づいていました。しかしそんな中、新選組がついに正式な武士となるのです…
終わりに
いかがでしたでしょうか?
新選組に続き幕府の要人である勝海舟、坂本龍馬や西郷さんと、幕末も終わりに近づきいよいよ役者が勢ぞろいといった感じですね。
少々ややこしくなって来ましたので簡単に整理してみます。幕府は開国を進めていますが、外国との戦を恐れ仕方なくといった感じ。幕臣の立場である勝海舟は開国こそ支持していますが、外国とは対等であるべきという考えです。
龍馬はそんな勝海舟を支持。ただ幕府一強の状態を崩す為に薩長同盟を目指し、武力衝突させたい訳ではなく後の大政奉還に繋げます。
薩摩と長州は攘夷(異国排除)こそ諦めますが、開国は弱腰の幕府に代わって自分達の手でという事ですね。
けど、山口県って何が有名だろ?安倍晋三さんの出身地というのはべつに自慢にならないし…
ああ、フグか!!
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