戦の天才 真田幸村 大坂の陣を戦い家康に死を覚悟させた義の男

戦国~幕末

大坂の陣をわかりやすく言うと、徳川と豊臣、且つ戦国最後の戦ですって感じで

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天下分け目の合戦である関ヶ原の戦いで勝利した家康は、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きます。

息子である秀忠の娘の千姫を秀吉の息子である秀頼に嫁がせ、亡き秀吉に対する義理も果たしました。

この時、秀頼11歳、千姫7歳。なんというか、世も末だな…

まあ令和まで続いてるけどねっと。

豊臣氏との関係性

征夷大将軍に任命され幕府を開いた家康でしたが、慶長10年(1,605年)には息子の秀忠に将軍を譲っています。これにより、以後の将軍職は徳川で世襲していく事を示しました。

そして秀忠の将軍就任を祝う席に出席する事を秀吉の跡取りである秀頼に要請しますが、上洛を求められた豊臣側はこれを断ります。この時の豊臣氏は220万石から65万石までになっていましたが、かつては天下を治めた自尊心があるという訳です。

家康としても豊臣氏を立てて共存する考えはありましたが、こういった豊臣側の出方により扱いに苦慮する事となっていきます。

しかし家康は六男の忠輝を秀頼のいる大阪城に派遣。この件は気にしていないという意を示すと、いったん江戸の発展に力を注いでいきます。

いやここまでじゃねーよ!って感じなんで、取りあえずは江戸城の改築なども進めていきます。

慶長16年(1,611年)にようやく京都の二条城にて家康と秀頼は会見しますが、豊臣はこの時も最初は拒否していました。

幕府の支配がまだ絶対的なものではない中、反徳川の諸大名と豊臣氏が組んで反乱を起こす可能性は、家康にとって脅威でもありました。

そこで家康は豊臣を牽制し、出方次第では豊臣を攻める事を決意するのです。

真田幸村参戦

慶長19年(1,614年)、家康は豊臣氏が再建していた方広寺の鐘に刻まれた文字に、不適切な部分があると言い掛かりをつけます。

刻まれていたのは「国家安康」と「君臣豊楽」という文字。

これに対し「国家安康」は家康の名を分断して呪うもので、「君臣豊楽」が豊臣を君主として頂くという意味に受け取れると主張するのです。

しかしこれは完全に字面の印象だけで、もちろんこれ自体は豊臣側からすればいわれのない事。豊臣氏家老の片桐且元が家康のいる駿府城に弁明に向かいますが、家康は会う事なく且元を追い返してしまいます。

且元は徳川を刺激しないよう秀頼が大阪城を出る事などを提案するも、母親の淀殿や秀頼はこれを拒否。これにより且元は豊臣から追放され、家康は豊臣が浪人を集め戦(いくさ)の準備をしているとして、豊臣征伐を決定するのでした。

こうして起こったのが大坂冬の陣です。

豊臣勢は関ヶ原の時に敗れた大名や浪人たちが大坂城に集まります。作戦会議が開かれますが、この時、豊臣の家臣が籠城を主張する中、進軍を主張したのが真田信繁です。

これはまず西国の大名と徳川を分断し、徳川軍と戦っている間に西国の大名を説得、味方に引き入れようというもの。それが上手くいけば戦いを有利に運べるし、それが叶わなかった時には籠城戦に切り替えるという作戦です。

ところで真田信繁って誰?って感じですが、真田幸村といえばあまりにも有名ですよね。幸村とは彼の死後そう呼ばれるようになったものですが、現在では真田幸村の名が一般的にも広く知られています。

そしてこの時、そんな幸村の作戦が実行されていれば、大坂冬の陣の結果は変わっていたともいわれています。しかし幸村の意見は通らず、豊臣の家臣が主張する籠城戦が採用されるのでした。

う~む、残念。

そんな真田幸村は永禄10年(1567年)あるいは元亀元年(1570年)と2つの説がありますが、真田昌幸と正妻の次男として生まれます。

幸村には信之という兄がいますが、関ヶ原の戦いの時は東軍と西軍に分かれて戦っています。幸村が今回と同じく豊臣方の西軍です。

ただべつに兄弟仲が悪いとか直接やり合ったとかではなく、政略結婚によりそうせざるを得なかったのです。

また父親の昌幸はどちらが勝っても真田は生き残ると安心したそうです。

親父、たくましいぜ。

この昌幸はあの武田信玄を支えたという知将です。

大坂冬の陣

戦が始まると豊臣軍約10万が籠城する大阪城を、約20万の徳川軍が囲みます。

決まってしまったのだから仕方がないと、幸村は籠城戦での活路を探ります。難攻不落の大阪城と言われてはいましたが、城の南側の守りが薄いとして、ここに真田丸といわれる陣を張りました。

これは外堀から少しはみ出した位置で敵の侵入を迎え撃つというもの。

このように幸村は即座に最も有効な作戦を導き出すのですが、それが戦の天才と呼ばれる所以(ゆえん)なのです。

そしてここ真田丸付近の戦いで、徳川軍は大変な苦戦を強いられる事になります。

幸村は慎重に様子をうかがう徳川軍の隊をしきりに挑発し、怒って攻め込んできた所を

人間には触れちゃならん痛みがあるんだ!!」(花の慶次!)

と、陣から火縄銃などで一斉射撃。徳川の兵隊を次々とハチの巣にしていきます。

そんな中、城の中で火薬が爆発するという事故が発生しました。すると、その爆発を味方の手によるものと勘違いした徳川軍が一斉にになだれ込んで来ます。

しかし武功を焦ったか不用意に駆け込んで行った為、真田隊の一斉射撃により、徳川軍はさらなる大打撃を食らってしまうのです。

それはその事態を知った家康が一時退却を命じたほどでした。

また幸村の方もあまりの敵軍の酷い有様を見て、哀れに思い手加減を命じたとも言われています。

それほどに大坂冬の陣での幸村は大活躍をするのでした。

籠城も10年は持つという豊臣に対し、意外にも戦いが長引くと物資の面などで不利になるのは徳川の方でした。

しかし和睦交渉が中々進まない中、徳川軍は天守閣へ向け大砲での砲撃を開始。砲弾のほとんどは天守閣まで届きませんでしたが、たまたま届いた一発が淀殿の侍女たちに命中し、何人も死んでしまうという事態を引き起こします。

この惨状に堪らず淀殿は和睦を決意。幸村らからは反対の声が上がるも和議に応じるのでした。

ラッキーパンチに淀殿がビビッて引かなければ、この戦いの行方、延いては日本の歴史も変わっていたかもしれません。

それでも幸村はこのあと、更なる鬼気迫る活躍で家康を追い込む事になります。

ちなみに幸村の隊は赤の甲冑で統一されていて、旗印には六文銭。これは三途の川の渡し賃という事。

アンタ惚れたぜ!

でもパチンコの演出ではもう少し頑張って!!って感じで

和睦の方は徳川の条件を豊臣が受け入れるという形にはなりましたが、ある程度は豊臣に対する配慮が感じられる内容となったようです。

しかし、家康の目的はさらに豊臣氏を追い込む事だったのです…。

徳川と豊臣の講和

自身の提案する作戦が却下されながらもその活躍で徳川に大打撃を与えた幸村でしたが、家康からの10万石の誘いを受けるもこれを断ります。

一説によると信濃国40万石を与えるという、さらに上積みされた条件を提示されても、幸村は豊臣に対する忠義を通したのだとか。

やっぱアンタかっこいいぜ!

慶長19年(1,614年)に起こった大阪冬の陣も、徳川と豊臣の間で講和が結ばれる事で治まりました。

互いに妥協しての事ではありましたが、けっきょく大坂城は本丸を残して取り壊し。外堀だけではなく内堀まで埋められてしまいました。

内堀に関しては徳川が強引に行ったという説もありますが、いずれにしても堀が無ければ簡単に侵入されてしまうという事で、これで籠城戦は出来なくなった訳です。

当然の事ながら徳川軍が辛酸を嘗めさせられた真田丸も、跡形もなく取り壊しですね。

しかし家康は豊臣氏を滅ぼす事をすでに決めていたかのように、大坂方が再び戦の準備をしていると難癖をつけます。豊臣側が到底飲めないであろう条件を出し、予想通り豊臣側がこれを拒否してくると、大坂へ向けて侵攻を開始しました。

こうして慶長20年(1,615年)、戦国最後の戦と言える大坂夏の陣が始まるのです。

大坂夏の陣

この戦は家康をして「3日分の食料があれば十分」と言わしめるほど、徳川軍と豊臣軍との間の戦力差は歴然でした。

豊臣軍約5万5,000人に対し徳川軍約15万5,000人とも言われ、すでに籠城戦も出来ない豊臣軍に勝ち目はないはずでした。

が…、またしても赤甲冑のあの男、真田幸村が立ちはだかるのでした。

「冗談じゃねえぞ、このやろー!!」(花の慶次!…のパチンコ!!)

4月26日、豊臣側の先制で郡山城を攻め落とし開戦の狼煙が上がると、ここではしばらく徳川軍の浅野長晟の軍勢との攻防が繰り広げられます。

5月6日には豊臣軍が大坂城に向かう徳川軍を迎撃するも、ほとんど返り討ちに合うような形になってしまいます。

しかし遅れて到着した幸村がここでも活躍。伊達政宗の軍勢を散々苦しめた後に撤退しますが、徳川軍の方も疲弊し追撃は出来なかったとの事です。

「関東の連中は百万いても候!男は一人もいないな候!!」

幸村は伊達政宗の隊を挑発しながら引き上げていきました。

しかしながら圧倒的に数で勝る徳川軍が、徐々に豊臣軍を追い詰めていきます。

5月7日、大坂近辺まで追い詰められた豊臣軍に最後の戦いが迫っていました。

幸村は軍の士気を高める為に秀頼の出陣を要望しますが、それも淀殿や家臣の反対で実現しませんでした。

秀頼にもしもの事があったらだと?

いやいや、ここで負けたらどの道終わりでしょうが。

幸村が総大将だったら本当に天下をひっくり返していたかもしれないですよ。ただまあ、それだと最前線で活躍出来ない事にもなりますが。

やがて攻勢に出てきた徳川軍の前に豊臣軍も応戦し乱戦となる中、意を決したように幸村が兵を率いて正面突破で突撃していきます。

家康は遙か後方、陣の一番後ろ。守るのは約1万3,000もの松平忠直の軍勢。

幸村は家康目掛けてこれを突っ切っていきます。

押し返されながらもこの攻勢は3度に渡り行われ、家康を守る旗本さえも散り散りにしました。旗本とは位の高い家臣ですから、それすら逃げ出すほどの攻撃だったという事です。

この時、武田信玄の侵攻の前に敗走した「三方ヶ原の戦い」以来、倒される事がなかった家康の旗印(のぼりみたいなやつ)も倒れ

「討ち取られるぐらいなら…」

と、家康に自害さえ覚悟させたといいます。

わしもう70オーバーよ…? by家康

幸村は家康にあと少しの所まで迫りますが、そもそもが多勢に無勢。ついに押し返され幸村は敗走し、豊臣軍全体も大坂城へと退却します。

幸村は戦いで傷つき疲弊し、神社の境内で身体を休めていた時、徳川軍の兵に見つかり討ち取られました。

翌日には大阪城も徳川軍に囲まれ、炎上し攻め落とされます。秀頼に嫁いでいた家康の孫娘は救い出されましたが、秀頼と淀殿は燃え上がる城内で自害しました…

本稿は試験勉強に役立たないので、学生の方は良ければ以下も参考に

インターネット家庭教師Netty

終わりに

いかがでしたでしょうか?

不利かと思われた豊臣氏でしたが、戦国の最後に真田幸村という、一歩間違えれば徳川の天下をひっくり返すほどの凄い人が出てきました。

幸村は大坂冬の陣と夏の陣を戦い抜きましたが、兵士である幸村の意見は中々通らず、けっきょく幸村が忠義を尽くした豊臣は敗北しました。

これにてどのような説を用いたとしても戦国時代は終わりとなります。そしてこの後、約250年に渡る天下泰平の世が続いていく事となるのです。

当サイトは一応資料や史実に基づいていますし、それと分かる場合は創作として紹介しています。諸説ありなら出来るだけそう注釈も入れています。

しかし定説とは変わっていく場合もあります。

気づけば修正するつもりではいますが、それはもう勘弁して下さい!!

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