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尊皇攘夷運動が激化し治安が悪化していた幕末の京都で、浪士によって浪士を制すとして壬生浪士組が結成されます。
当初は京都の人達から「壬生狼(みぶろ)」「みぼろ」などと呼ばれ疎まれていましたが、しかしその活躍が認められ新選組という名を与えられると、近藤勇の試衛館派により芹沢鴨の一派が粛清されます。近藤体制となり厳しく統制された新選組は、次第に京都の人達にも受け入れられていくのです。
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尊王攘夷派の計画
新選組は壬生の郷士八木源之丞の邸宅などを屯所とし、その活動は壬生寺や境内での日々の稽古と市中見回り(パトロール)が中心でした。
武士に憧れ剣で身を立てると意気込んだ新選組でしたが、近藤などは変わり映えのしない見回り業務に意義を見出せなくなる時もあったのだとか。
浪士の集まりで正式な幕府の組織でもなく、会津藩預かりという下請けみたいな立場でもありました。
しかしそんな新選組でしたが、尊王攘夷運動が激しくなる京都においては程なくして活躍の場が訪れる事になるのです。
元治元年(1,864年)の春、新選組は長州と通じ武器を流したとして、攘夷派の古坂俊太郎を捕らえました。副長の土方歳三らによる苛烈な拷問により、その古坂から情報を引き出します。
それは祇園祭の前、風の強い日を狙い御所に火を放ち、炎が広がる混乱に乗じて一橋慶喜と松平容保を殺害。その後、孝明天皇を連れ去るというものでした。
新選組はその計画を潰すべく、京の街を尊王攘夷派の潜伏場所を求め探索していきます。
池田屋事件
7月8日、近藤、土方、井上源三郎がそれぞれ率いる三手に分かれて探索しており、その日も終わりに近づいた午後10時頃、近藤隊が旅館の池田屋を訪れます。
「御用改めである」
近藤が告げると、二階に向かって声をかける主人を制し、近藤と隊士たちが階段を駆け上がり二階の部屋に乗り込みます。すると20名あまりの長州や土佐の尊王攘夷の志士が会合を開いていました。
「手向かえば容赦なく斬り付ける」
局長の近藤や新選組で一二を争う強さの沖田総司と永倉新八、藤堂平助が斬りかかっていきます。
不意打ちの襲撃を受けた志士も抵抗し応戦。激しい斬り合いとなる中、沖田は持病の肺結核の発作が出てしまい戦線離脱。藤堂も額を斬られて一時的に戦闘不能になってしまいます。
近藤と永倉は奮闘しますが、その永倉も刀が折れてしまい拳で応戦します。脱出を図ろうとした志士は外で構えていた新選組隊士と交戦。こちらも双方に死傷者を出します。
そんな乱戦の最中、土方、井上の別動隊が援軍に来ると、形勢は新選組に傾いていきます。余裕が出来ると殺害から捕縛に切り替え、こうして池田屋での戦いは新選組により制圧されるのでした。これを池田屋事件といいます。
ちなみにこの池田屋での会合には大物である桂小五郎も参加予定でしたが、なんでも早く着きすぎたので一旦、池田屋を離れていた事で偶然にも難を逃れたのだとか。
事件の諸説
寺田屋事件の発端となった拷問による古坂の自白ですが、じつは古坂からは大した情報は得ていないとの説があります。これは押収した証拠品の中から、何らかの計画実行を思わせる書状が発見されたのではないかというものです。
一説には拷問自体もそこまでのものではなかったともいわれています。
また何らかの情報を得たなら阻止しようとするのは当然ですが、そもそも攘夷派にこのような計画はなく、手柄を上げる為に土方らによってデッチ上げられたのではないかという説もあります。
何にせよ物証に乏しいからこそ可能性の話として多数の説が出るものなので、どの説も裏付ける証拠は少ないですよね。
ただデッチ上げだったとしても、いずれにしろこの翌月に起こる「禁門の変」では長州藩による似たような計画が実行されようとしていました。そして「蛤御門(はまぐりごもん)の変」とも呼ばれるこの事件は、それよりもさらに激しいものとなったのです。
禁門の変
長州藩は八月十八日の政変で京を追われ、厳しい立場に追い込まれていました。それでも一部の長州藩士は何とか天誅と称して京都で暗躍していた訳ですが、藩内でもこの状況を変えるべく協議されていました。しかしこの池田屋事件を受けると
「会津のやつらめ!!」
「軍を進めて武力を背景に立場を取り戻すのだ!!」
という来嶋又兵衛らによる進撃の機運が高まります。
久坂玄瑞は朝廷に立場を戻してもらうよう嘆願書を提出するも受け入れらず、長州藩本陣において最後の会議が開かれます。幕府側との圧倒的な戦力差から
「ここは時期を待つべき」
とする久坂と
「医者の坊主に戦の何が分かる」
などとあくまでも進撃を主張する来嶋が激論を交わすも、最終的には来嶋の意見が通りました。そして元治元年(1,864年)7月19日、禁門の変が起こるのです。
ちなみに久坂玄瑞は医者の家に生まれ、吉田松陰の妹と結婚しています。
長州藩の最終目的は、御所に押し入り天皇を連れ出す事。それを阻止しようと集まった会津、薩摩、桑名の諸藩と戦となるのです。
長州藩は御所に向けても砲撃し、来嶋の率いる部隊が侵入。しかし西郷吉之助(後の隆盛)率いる援軍により総崩れとなり、狙撃され胸を撃たれた来嶋も「もはやこれまで」と自害しました。
久坂は戦場となった京都の中、あくまでも朝廷に嘆願する為に公家の鷹司邸に侵入。しかし砲撃され炎上する邸内で「もはやこれまで」と自害。こうして禁門の変は幕府側の勝利で終わりました。
この戦いで京都の中心、約3万戸が焼けたといわれています。
ちなみに新選組はというと天王山や御所周辺で長州軍と交戦しており、勝利に終わった後も数日に渡り長州の敗走兵を捜索したとの事です。
新選組はこの一か月余りの間に起きた「池田屋事件」と「禁門の変」の活躍が認められ、幕臣に取り立ての打診があったとの事ですが、実際に幕臣となるのはもう少し先の話…
終わりに
いかがでしたでしょうか?
長州藩のたくらみは、一度は池田屋事件により阻止されましたが、けっきょく長州藩のクーデターは決行され、この禁門の変で長州藩は朝敵となりました。さらには下関戦争で連合艦隊の攻撃を受け、いよいよ長州藩は追い詰められていくのです。
ちなみに新選組の屯所だった八木邸は現存していて、隊士による刀傷もそのまま残っていますね。なんでも芹沢鴨を暗殺した時に付けられたそうです。
誠のお侍さんやで!!by八木源之丞
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